チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2016年08月01日掲載

「最近の若者は・・・」という言葉を以前からよく耳にしますし、つい言ってしまうこともあります。確かに、目に余るマナーや言葉遣いをしばしば耳目にすることもあります。だからと言って、年配者が決してそうではないとも言い切れません。しかし、年代の比較には大した意味は無いのかも知れません。むしろ大事なことは、「最近の若者は」と言う時、「そういう若者を作ったのは、影響を与えたのは誰だ?」という当事者意識を蔑ろには出来ないということでしょう。

人は全くの孤独、孤立の内には育たないでしょうし、様々な人や出来事の影響を受けて育つはずです。「自分は自分からしか影響を受けていない」ということは、先ず以て有り得ないことでしょう。

冒頭に、「最近の若者」はと書きましたが、その言葉の意味するところとは反対に、「若い人たちが羨ましい」と思える時や事も多々あります。体力や記憶力のみならず、斬新なアイディア、チャレンジ精神等々。もちろんお年を召していらしても、これらで若い人たちに引けを取らない方々もいらっしゃいます。

いずれにしましても、この「羨ましく思う気持ち」を持つことは、「妬ましく思う」こととは異なり、自らの成長へつながるものでもありそうです。そもそも、羨ましく思う心の在りようとは、自分が持っていない何かを他人がもっていることに気付いた時に起こり得ます。しかし同時に、自分が持っていない何かを持っている全ての人に対して、必ずしも起こるわけでもありません。特に何も感じない時もあります。自分には関係のないと思われるものや才能、自分に影響を及ぼすことのないものや人には、大して関心を持ちません。時には、自分にはない何かを備えている人に対して、尊敬の念すら沸いてくる時があります。
そもそも人間、未知の可能性とともに未開発の部分もたくさん持っています。しかし、この可能性を育てていったり、未開発の部分を花開かせていったりする際には、苦しみや傷み、挫折などを伴いもします。その時、「羨ましい」という思いは、可能性を育み、花開かせようと努めている中に芽生えてくるようです。そして、いざ花が開き、可能性が殻を破り現実の何かに昇華された時、羨ましいという気持ちは徐々に薄れていき、況してや妬ましい気持ちなど微塵程にも起こり得ません。

「羨ましい」気持ちがあるとは、まだ自分自身の中に花開くことを待っている可能性があることと言えましょう。この花が開くことを待っている可能性を苦しみもがきながらも探り続けていくエネルギーは、プラスに転じ得るものとなるでしょう。少なくとも、恨み辛みを延々と述べたり、妬みから生じる人の足を引っ張ったりすることに費やすエネルギーよりは、遥かに豊かで、生産性に富んだ命の通ったエネルギーとなるはずです。