チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2017年04月01日掲載
日本で四月と言えば、新学期、新年度ということで、入学式や入社式が数々行われます。「ピカピカの一年生」「新人くん」「新人さん」という言葉も聞かれ、その初々しい姿には思わず微笑んだりします。学校では、一つしか違わないのに、二年生が急にもう何年もいる先輩に見えたり、あたかもそのように振る舞う、その姿にも微笑みがこぼれたりもします。
しかし、誰もがそれぞれの世界で新人の時がありました。一気にベテラン、達人の域に達した人はいないでしょうし、もし、そのようなことがあるなら、それは本当のところ単なる付け焼き刃であり、いずれは綻びも出ることでしょう。
「単に年をとると言うより、私は年を重ねること、人生の時間を重ねることを大切にしたい」と言われた方にお目にかかったことがありました。年齢を単に数字だけで語るのであれば、「年を取る」も「年を重ねる」も大した違いはないでしょうけれども、丁寧で豊かな生き方、命の時間の使い方に対しての豊かさというものを、「年を重ねる」という言い方から強く感じさせられる気がします。
一方、この、本来大切な授かりものである時間というものを巡って別の角度からこういう言葉を耳にします。「日本の交通機関は、本当に時間が正確だ」と。殊に初めて海外から来られた多くの方々はひじょうに驚かれ、そのような言葉を口にされます。
私事になりますが、昨月は、日頃使っている交通機関に加え、飛行機や新幹線に乗る機会がありました。時には、天候によって早まったり遅れたりすることもありますが、そうでない限り実に正確に、まるでオリンピックなどで使われるストップウォッチで計ったかのような正確さを保っています。そのおかげで予定や計画も立て易く、スムーズにことも運び、ありがたい限りです。
一方、「時間にルーズ」という言葉があります。今や和製英語のように使われている節もありますが、やむを得ない事情があったわけでもないのに約束の時間によく遅れる「時間にルーズな人」、仕事や生活に締まりのない人という意味での「ルーズな人」という具合に使われます。いずれも締まりのないとか、メリハリがない、だらしのないという、よくない意味合いで使われます。
そもそも、本来時間は数字の上ではすべての人に全く平等に与えられています。ある特定の人には一日30時間、ある人には10時間ということはありません。大事なことは時間の良き管理者になることを大切にすることではないのでしょうか。時間の良き管理者になることを大切にするか、反対に時間に使われる人になることに何ら危機感を感じていないか、そこに大きな分かれ目が生まれてくるのかもしれません。まさに、時間という尊い授かりものに対する、頂いている側の応答の問題、姿勢が問われているとも言えましょう。その意味では、数字で表したり、計ったりすることのできる時間もさることながら、数字で計ることのできない命の時間を巡ってはルーズではありたくないものです。なぜなら、それは「もったいない生き方」に通じかねないからです。
ところが、ルーズ(loose)という単語には、「ゆったりとしている」「ゆとりのあるさま」という意味もあります。こちらの意味を大事にすることには、そう反対意見は挙がらないでしょう。ゆったりしている、ゆとりがあることは、より豊かな何かを生み出し、深め、見ることにも繋がっていくはずです。しかし、そうではないゆとりやゆったりは、冒頭に記しました「ルーズ」に繋がりかねません。まさに、looseがloseになりかねません。慌ただしい世の中だけに、時間や物事を丁寧に重ねていきたいものです。