チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2017年05月01日掲載

新学年度が始まり、早くもひと月が経ちました。既に何十年も前になりますが、中学に入学したての頃、小学校とは大きく違うことに驚きつつ、心の中でしばしば思ったものでした。「友だちは出来るだろうか?」「(小学校受験を考えた、と言っても親がですが、朝のラッシュが怖くて取り止めた経験がありましたので)初めての電車通学は大丈夫だろうか?」「英語の授業にはついていかれるだろうか?」等々、子ども心にいろいろと悩んだものでした。今でこそ懐かしい想い出と同時に、とても恥ずかしい話ですが、英語の教科書には単語の上にカタカナで密かにルビを書いていました。「スプリング、ハズ、カム」「ジス、イズ、ア、ペン」の如くです。

さて、私たち人間とは、未知の物事に対しては期待と不安を持ち合わせます。楽しみにしていることであればワクワクし、期待を持ちます。反対に、自信が持てないこと、出来れば避けたいことには不安を持ちます。けれども、それが人間の自然な心の動きでありましょう。無理に押し止めたり、無いことにしたりする必要はないようです。

殊に否定的に捉えていることなどは、後になってみるとさほどのことではなかったと思えることも少なくありません。まさに「食べず嫌い」ならぬ、「やらず嫌い」かのようです。

ちなみに、今の世の中数字が横行し、幅を利かせている風潮があることは否めませんし、数字の持つ力や深い意味は受け止め、尊重しなければなりません。しかし、その一方で、「本当に、このことは数字で判断し、決めるべきことなのか、それとも違うことなのか?」の見極めが、益々必要とされているとも言えましょう。そして、このこととの繋がり、あるいは延長とも言えましょうが、「早く、すぐに答えを出さなければならない」という言葉に縛られ過ぎではと思わせられることがあります。

子どもの頃から、「早く答えを出しなさい」と、いろいろな場面で言われたことを思い出しもします。けれども、「答えは出すもの」であると同時に、「答えは出るもの」という受け止め方も否定できないように思えます。たっぷり、丁寧に時間をかけた結果、自ずと答えが出てきたり、示されたりすることもしばしばあることです。もちろん、最終的に多くの場合、答えは自分(たち)が出してはいるのですが、必ずしも自分の力だけで出しているものばかりではないようです。このことに気付かされるのもまた、丁寧に時間をかけてこそのことでありましょう。ともすれば、丁寧に時間をかけることが苦手になってきた現代人には、少々きついことかも知れません。

言わずもがなでしょうが、時間をかけるとは、単に時間を過ごすことではありません。それでは、浪費になりかねません。恰も、唯ボーッと突っ立って時間をやり過ごすことと違うはずです。「時が解決する」という言葉がありますが、これなども徒に時計の針を眺めていることとは違うはずです。むしろ、時間という授かりものの中にしっかりと我が身と心を置いて時を過ごすことであると言えましょう。
スピードが重視される時代になった結果、早く答えを出さないと取り残されるという恐怖心を植え付けることにも繋がりました。しっかりと身を置くということも、毛嫌いされているような印象を持つこともあります。「急いては、事をし損じる」という言葉が、段々と隅に追い遣られて欲しくはありません。同じように、「信じて待つ」という在りようも蔑ろにしたくないものです。聖書は「時」というものを大事にし続けていますが、それは時間(歴史)の中で起こっている意味ある出来事に如何に目を向け、心を注ぐことができるかということへの促しやチャレンジをも含んでいます。