チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2017年08月01日掲載
今や世の中は「カードの時代」と言ってもよい時代となりました。クレジットカード、デパートのカード、乗り物、コンビニエンスストアなど、多い人は何十枚ものカードがお財布に収められていることでしょう。また、海外に参りますと、少額の買い物でもカード払いをしている光景を目にします。ちなみに、カードだけに限ったことではありませんが、そこには契約書が一緒に送られてきます。「以下甲という」「以下乙という」などと表記されていますが、実はきちんと読んだことがありません。前々から、「欧米社会は契約社会、日本は信用社会」とも言われてきました。買い物をツケでできるのは、その表れかも知れません。
ちなみに、イタリア出身の女性哲学者にミケーラ・マルザーノという方がおられ、その著書に「不信の契約」というタイトルを伏したものがあります。契約が増え広がれば増え広がる程に、却って不信感が増し加わり、お互いに警戒し合う空気が広がっていくという、何とも不思議な様相を唱えています。そして、そのような不信感が広まっていく背景には、自己責任や個人の意志尊重に重きが置かれ、反対に、他人を信用することは現代社会に於いては、弱さの表れであると分析されています。セキュリティーシステムの強化などは、確かに安全面の確保には必要、かつ大事なことでもありましょう。しかし、同時に不安感の増大を生み出していることも、あながち否定はできません。人を信用しない、信用できない社会の中では、人間が本来大事にしてきた協力、協働、連帯というものは益々端っこに追い遣られ、人を孤独へと誘っていくようです。
確かに、人を信じることにはリスクや恐れ、不安も伴います。いつ手のひらを返されやしないか、いつ裏切られやしないか、いつ梯子を外されやしないかという不安も伴います。しかし、悲しい事に、平然と人を裏切りながら心に痛みを感じない人、自らのそのような有り様を問うこともしない人は残念なことに皆無であるとは言えません。けれども、「全くのリスクがないところには、真の愛は生まれてはこない」と、著者であるミケーラ・マルザーノは結んでいます。
「最近の日本社会は、信用社会から契約社会に移り変わりつつある」というのが、多くの社会学者の見解であるということを聞いたことがあります。小さいことか否かは分かりませんが、「知らない人に話しかけられても無視しなさい」という言葉もありますが、初めは誰でも初対面だったはずです。通りすがりに、それまで全く面識の無かったお年寄りの方に挨拶されたこともあります。山道では、お互いに挨拶を交わすことがなされています。もちろん、危険は事前に回避するに越したことはありませんし、我が身は自分で守ることの大切さも否定はできません。しかし、「人を見たら泥棒と思え」とか「先ずは疑ってかかれ」式の教えや発想しか持てないとするなら、そこにはどこか淋しさを感じさせられもします。本当に難しく、ある意味厄介な時代に私たちは居るのかも知れません。
けれども、信用を打ち立て、あるいは回復していくには、先ずは相手を拒否し、疑ってかかる前に、信用や信頼にはしばしばリスクが伴うことをどこかで覚えながら、それでも心を開いていくことの方が遥かに生産的ではないでしょうか。
聖書を広く眺めてみますと、自らに幾重もの鎧を纏い、その結果心身共に身動きがとれなくなってしまった人よりも、自らの弱さ、綻び、欠けたるところもさらけ出している人の方が、不思議なことに人を愛せ、人に愛され、授かった命を豊かに生き、生かされています。そして、我が身に起こったことを決して人のせいにしていないことも!