チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2017年11月01日掲載
先日、ある方から次のような話を聞かせていただきました。「最近では人が握ったおにぎりを食べることや、握手をすることを避ける傾向があるのです。とてもさみしい話ですが、抗菌何々の影響なのでしょうかね」と。
夏は食べ物が腐敗しやすい時、冬は風邪が流行っていく中、確かに日常生活の中での健康管理、衛生管理は大切なことでしょう。「時代が違う」と言われればそれまでですが、自分が子どものころを振り返ってみますと、平気でホースや蛇口から水を飲んでいました。恥ずかしながら、食事前にきちんと手を洗った経験は先生の前以外ではありませんでしたし、床に落とした食べ物は、「十数える内なら大丈夫だから食べなさい」と、今思えば何の根拠もないことを親に言われ、そういうものかと思っていました。日が暮れるまで外で遊び回り、勉強(などと言っては怒られそうですが)は二の次、三の次でした。少しでも間の空くメール返信に一喜一憂し、イライラの原因になることもありませんでした。コンピューターゲームはなくても、遊びの中にルール作りがあり、暗くなるまで外で遊びまわっていました。下町でしたので、隣近所で調味料の貸し借りは普通でしたし、よそのお爺さん、お婆さん、おじさん、おばさん、果てはお坊さんにまで、悪戯をしてはよく怒られたものでした。
しかし思い返してみますと、今より自由があったように思えます。辛いことや悲しいことも当然ある一方、どこかワクワク感や輝きがあったように思えます。幼子やご高齢の方、ハンディを持つ方はその限りではありませんが、余程のことがない限り電車やバスで立つのは当たり前、転んで痛い思いをし、薬を塗ることはあっても、転ばないように、転ばせないようにと扱われた思い出がありません。しかし、そのおかげといっては何ですが、痛みを感じることで人も同じように痛むのだということへの気づきや転んだ目線で見えてくるものがありました。
教育専門家ではありませんし、家庭ごとの教育方針もあるでしょうが、最近では日本のみならず、ヨーロッパでも過剰な程の衛生観念や過保護的ありようが進んでいるということを、カトリックのフランス人神父を通して伺いました。安易な時代比較や国別比較はさして意味がないでしょうが、過剰な衛生観念や過保護的なことに加えて過剰に危険やチャレンジを恐れることに因って、却って可能性が摘み取られ、世界が狭められている勿体なさのようなものを感じます。
かつて海外の修道院で銃と手榴弾を持った強盗侵入を経験しましただけに、確かに安全に暮らせることはありがたいことです。保障制度が充実していることもありがたいと思います。しかしながら、魂のケア、安全、保障面はとなりますと、「?」がいくつも浮かんできます。リスクの欠片もない安全のみというものがあればありがたいでしょうが、果たして充実感を得られるだろうか、人生に発展性があるだろうか、チャレンジのないところにでも発見、発展、進歩は起こりえるのだろうか等々、いろいろ考えさせられると同時に、ますます混乱してくる感も否めません。
「人間は考える葦である」で有名なブレーズ・パスカルは「信仰とは賭けである」という言葉を残しました。賭けにはリスクが伴います。けれども、それを避けて負荷もなく、問われることもなく、思い通りに一切が運ぶところに留まり続ける限り、それこそもっと大きなリスクが待ち受けているように思えます。決して駄洒落ではありませんが、「Challenge-Chance-Change」は全くの別物であるどころか、大いに絡み合い、何かを生み出す深く、強い繋がりあるものと思えてならないのですが・・・