チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2017年12月01日掲載

時間の経つのは本当に早いもので、今年も月捲りのカレンダーは最後の一枚になりました。巷では、先月からすでにクリスマスの雰囲気を醸し出しています。その光景を目にしながら、「あぁ、また一年経った」と暦を思い浮かべながら思うものですが、時計やカレンダーで計ることのできない、あるいは計ってはならない「命の時間」というものがあるはずです。
クリスマス、それは商業ベースの年中行事ではなく、数字で計ることのできない「命の出来事」「命の時間」とも言えます。そもそもキリスト教とは、大事な何かを忘れない、心にしっかり留めおくことを大事にする宗教、足し算の宗教と言えるようにも思えます。しかも、忘れない、心にしっかり留めおく、覚え続けるのは、新たな何かを生み出し、創り出すためでもあります。
確かに現代社会は益々もってスピーディーで、目まぐるしくなってきました。情報は氾濫し、ゆっくり吟味などしていられないという声も聞こえます。ちなみに、「歩」という漢字は、「止まる」と「少し」が上下に並んで出来上がっています。堅実な歩み、中身を伴う歩みには、少し止まることが必要なのかも知れません。しかし、一方で、「世の中、立ち止まったら負けだ」「世の中、立ち止まれるほど甘くない」という声もあります。けれども、「たまには立ち止まっても大丈夫」と教えることも必要なのではと思わせられます。自分を振り返ってみた時、あまり思慮深くないからでしょうか、「結構何とかなる」式にやってきたところ大です。机での勉強以外に、むしろ勉強になることもあります。「しょうがない」と思ってきたこともあります。
よく、駅や空港でのアナウンスの中、「お急ぎのところ、誠に申し訳ございません」という言葉を耳にします。運転士やパイロットが故意に遅らせたのであれば話は別ですが、人間の力ではどうにもならない原因で遅れるケース、どうしようもない時は多々あります。
そのようなとき、しばしばその人の本性が出るようです。当たり散らす人、誰かのせいにする人、落ち着いて次の方策を考える人等々。それぞれに事情や性格があるのでしょうが、目の前のことを静かに受け容れることこそが、本当の「しょうがない」に繋がる気がします。厳しい言い方になりますが、「たら、れば」は事実の前では無意味と言えましょう。むしろ、想定外の出来事へのありようは、自らの人間的成長へのチャンス、テストの時と言えます。幸せな人生の秘訣とは、不安や恐れを伴いながらも、変化を受け容れるところにあるようです。ちなみに、「伝統」という言葉を言い訳に変化を嫌うワンパターンを、聖書やキリスト教は危険視してきました。
冒頭に記しました「命の時間」、それは自分と向き合い、心の声を聴く時間とも言えましょう。現代社会は、その時間を多くの人から奪い取ってもいるようです。このことは、知識は豊富でも、知恵や感性が伴っていかない事態を生み出してもいます。さらに、それだけでなく、優しさや想像力、創造力にも封をしているかのようです。あるご高齢の方が言われました。「私ね、人から優しさを貰ったら心に貯金しておくの。そして、ふと淋しくなった時はそれを引き出して元気になるの。あなたも今から積んでおきなさい。年金よりいいわよ」と。なんとも優しく、ユーモアも交えた言葉です。人の優しさに触れると、自分も優しくなれます。求めているものは何、喜びものは何、そう考える人が優しい人なのでしょう。そして、多くの人が求めているものの最たるものは、優しさなのでしょう。であればこそ、己に勝つこともさることながら、「自分にもっと優しくなってもいいのだよ」 というメッセージを、もっともっと発信してよいのではないでしょうか。
クリスマスの大事件、それは神からの優しさ抜きには語り得ません。