チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2016年07月01日掲載
試験前になりますと、教員室のカウンターには「夥しい数」と言ってもよい程の生徒たちが質問を持って各々の先生を目指してやってきます。昼休みといい、放課後といい、その熱心さには感心する程です。昔の自分を振り返ってみますと、ここまで熱心に質問に赴いたか、恥ずかしながら殆ど記憶にありません。
しかしながら、文字こそ同じ「質問」でも、全く別の質問があります。自分の知らないこと、分からないことに自ら気付き、誰かに問う質問ではなしに、むしろそれは「詰問」と言ったほうがよいかも知れません。
世間を見渡してみますと、上司が部下に、教師が生徒に、親が子に、「どうして・・・したの?」「どうして分からないの?」「どうして、どうして、どうして」の連発です。それとなく聞いていますと、その殆ど全てが、と言ってもよい程に問い詰め形か命令形です。上司も、教師も、親も、部下を、生徒を、子を思えばこそという気持ちが伝わってくる一方で、言われた方の気持ちを察してみますと、さぞかし息苦しい時も少なくないだろうなと思えてきます。それは、自らの経験上よく分かります。今でこそ懐かしい想い出のようですが、子どもの当時は息苦しかったものです。親が子を思えばこそのことではあるのでしょうが、あまりに矢継ぎ早の質問形、命令形には息苦しくさせられた苦い想い出があります。尤も、今となっては親に向かって言い返す機会はなくなってしまいましたが・・・。
ところで、大人も決して例外ではないでしょうが、自分の気持ちを直ぐさま言葉にすることは結構難しい時があります。況してや、心の揺れ動きが激しい時や場面では、自らが自分の感情を的確、正確に掴み取ることさえ難しく思えます。人の気持ちや心模様とは、簡単にパターン化できませんし、分類や決め付け、数値化もできません。むしろ、こういったことはそう易々としてはならないものであるとさえ思わされます。
そのような時、子ども時分の自らを振り返ってみますと、音声としての言葉だけを返し、なんとかその場を凌ごうとしたことも多々ありました。矢継ぎ早の詰問ではなしに、一緒に悩み、考え、迷ってくれたら少しずつ気持ちを言葉にできたのではと思ったこともしばしばのことでした。自分でもよく分からない自分の複雑な気持ちを、況してや言葉になどすらすらできるものでもない、そういう自分を受け止めてもらえていたらと、今になって残念に思うこともあります。
その時々の在りようよりも、条件のみを見られ、それを如何に更により良い条件にしていかれるかという関わり合いの中では、条件に満足がいく時は速やかに事が運ぶでしょう。しかし、人間は条件で愛されるものではないはずです。容易いことではありませんが、その時々を苦しみ、もがきながらも精一杯生きている姿を認めてもらいたい、愛されたいはずです。