チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2018年02月01日掲載
日本語に限ったことではありませんが、同音異義語というものがあります。例えば、日本語で「ハシ」と発音する言葉は、地域によってイントネーションの違いはあるものの、聴き分けが難しい言葉にあげられましょう。「橋」「箸」「端」「梯」といった具合に、漢字で書いてもらえればすぐに区別が付きますけれども、音だけ、あるいは平仮名、カタカナ表記だけでは、どれに当たるのか分かり難いところがあります。
ちなみに、日本語で一番多い同音異義語は、「コウショウ」だそうです。「交渉」「厚相」「考証」「高尚」「興商」「公証」「口承」「校章」「交唱」「工匠」「哄笑」等々、五十近くあるそうです。それだけで紙面が埋まってしまいそうな程です。確かに、音だけでは区別が付き難いですが、例え文字にしなくても話の流れをきちんと聴いていれば区別ができます。文脈をきちんと辿っていれば、その中で理解はできます。
ある時、同音異義語ではありませんが、それに通じるようなところのある話を伺ったことがあります。今は電気ポットが多い時代ですので、ガスでお湯を沸かすことは珍しくなりましたが、「お湯を沸かして」と親が頼んだところ、頼まれた子どもは薬缶に水を差し、ガスに火を点け、その上に薬缶を置き、換気扇を回し、キッチンの灯りを点けたそうです。そして、いざお湯が沸くと、ガスを消し、煮えたぎったお湯の入った薬缶は持ってきたものの、換気扇と灯は点けっ放しであったという話です。
「電気代が勿体ない」という方へ話を向けることもできますが、お湯を沸かすという行為は確かに、そして忠実に行いましたが、それに伴うつながりが切れている、セットでものを考えられなかった点に目を向けることもできます。特段悪意があったわけではないでしょうが、物事や出来事をピンポイントで見ることの大切さと、一方脈絡や繋がりを重視しなければならないこと、そのバランスや、TPOでの使い分けの難しさと大切さというものを考えさせられた話でした。
しかし、考えてみますと、私たち人間は、あるいは人間に限ったことではないかも知れませんが、この世に生を受けた瞬間から、ひょっとするとその前から、命の誕生は繋がりの中で始まるのではなかろうかと。そして、その後も、時には一人静かに時間を過ごしたいと願うこともありますものの、突き詰めていけば、私たちは誰かとの、あるいは自然や、社会やそこでの出来事との繋がり無くしては生き難いはずです。繋がりの中に生まれ、繋がりの中で成長し、楽しく嬉しいこと、反対に辛く悲しいことも経験します。同時に、その繋がりの中で力を与えられたり、勇気付けられたり、癒されもします。
確かに、「繋がりなど面倒だ、鬱陶しい」という声もあります。そう思ってしまう時もあります。けれども、そのような声を字句通りに受け取る前に、あるいは心を痛める事件や出来事を耳目にする度に、むしろそのような声や出来事は、心のどこかで繋がりを必死に求めているサイン、叫び、悲鳴として聴き取ることもできるはずです。
「聖歌隊の指揮者にとって最も重要な任務は、大声を出して歌う人や、音を外している人に注意を与えることではない。その任務とは、声の出ていない人、聴き取れないほどの小さな声の人の存在を、敏感に感じ取るよう努めることだ。そして、『あなたの声が聴こえなければ、この聖歌隊は無いほうが良いのだ』と語りかけることなのだ」と。これは、ローワン・ウィリアムズ前カンタベリー大主教の説教の一部です。
声を出せずにいる者、かすかな声で癒しと救いを求めている人に耳を傾けようとし始めるなら、こういうメッセージを返すことができるでしょう。「YOU WILL NEVER WALK ALONE」と。キリスト教の根幹に関わるメッセージです。