チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2018年03月01日掲載

キリスト教という宗教を創ろうとか、キリスト教徒(クリスチャン)を作ろうというつもりで、イエス様は活動を始めたわけではありませんでした。今でこそキリスト教は世界三大宗教の一つであるとか、イエス様の教えを大切にし、それに倣い、従おうとする人たちのことをクリスチャンと呼んでいますが、それらは自分たちが名付けたのではなく、むしろ名付けられたものでした。聖書はこのことを「アンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」と記録しています。
そもそも、当初イエス様を交えてわずか13人で始まった働きは、今では22億ともそれ以上とも言われています。しかも、弟子たち12人は聖人君子の集まりではありませんでした。寸分の疑いもイエス様に対して持たなかったわけでもありませんでした。内々での権力闘争もしました。挙句の果てには、イエス様を裏切りもしました。
それにもかかわらず、肝心のイエス様の方はといえば、裏切りの後も弟子たちを見捨てもしなければ、見限りもなさいませんでした。それどころか、神の力、命の息吹を注ぎ込み続けられながら、依然としてご自分の弟子として尊い務めを託されました。
世の中に「チームワーク」という言葉があります。この言葉から、「まとまり」「仲良し」「助け合い」といった言葉も浮かんできます。けれども、今一度イエス様を中心とした弟子集団のことを思い浮かべてみますと、ある時点まではまとまりがあったとは必ずしも言い切れません。いつも和気あいあいとした仲良し集団とも、いつでも自らを犠牲にして助け合っていたとも言い難いところがあります。
しかし、イエス様が大事にされたチームワークとは、ある目的のために個々人が託されている責任を果たすこと、役割分担がきちんとなされ協働していくことでした。ご自身が一人で全てをなさった方が遥かに正確、迅速、完璧であったことでしょうが、それをなさいませんでした。ミスを仕出かし、自分中心的な弟子たちを諦めることはなさいませんでした。常に、一人一人の賜物に目を向けられ、引き出し、用いることに専心されました。であればこそ、後に聖人と言われるような人々、殉教をも厭わない人々が生み出されていったのでしょう。
スポーツの世界でも、優位に立っている相手が「ひょっとしたら逆転されるかも」「相手はこのまま劣勢ではいないかも」と少しでも思い始めると余計なプレッシャーを生み出し、無駄な力が出始めます。そして、ついにゲームを引っ繰り返されることは珍しいことではありません。自分のことだけにしか目が行かず、焦りが生み出されるものの、余裕を失い始めます。そして、最後には諦め気分が心を占め始めさえします。その瞬間、ゲームは決まったと言ってもよいのかも知れません。
ある時までは大言壮語をしていながら、十字架を目前にされたイエス様、十字架の上のイエス様を裏切った弟子たちに対して、イエス様の心中には「また裏切るかも」「また逃げるかも」という発想は見出せません。ただ一人、イエス様をお金で売り渡したユダに対してだけは「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われましたが、
他の弟子たちには彼らの裏切りを予告さえされましたが、徹底してご自身の傍に置き続けました。
ちなみに、図らずも2月の聖句が「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というパウロの言葉であり、私事的には好きな聖句の一つですが、一時は弱さをごまかし、強さを演じていた弟子たちでしたが、諦めることをなさらないイエス様に徹底的にこの聖書の言葉を胸に刻み付けられたことでしょう。