チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2018年04月01日掲載

小さな子どもたちに「イエス様って、どんな方だろう?」と尋ねますと、殆どが「優しい人」「愛情深い人」「心の広い人」「奇跡を起こせるすごい人」という答えが返ってきます。決して的外れではありませんし、私自身、小さい頃は同じように思っていました。
また、イエス様の一番弟子と言われるペテロにおいては、「雄々しく、頼もしいリーダー」というイメージをもっていました。
しかし、年を重ね、聖書を読み返してみますと、子どもの頃に持っていたイメージとは違うイエス様の姿、ペテロの姿が浮き彫りになってきました。
ちなみに、今年のイースター(復活日)は、グレゴリオ暦に基づいています私たちの教会では4月1日、ユリウス暦に基づいている東方教会では4月8日になります。そして、イースターまでの一週間を「聖週」と言いますが、その中でも特にイエス様によって「最後の晩餐」が主宰され、その中で大変重要な教えを弟子たちに伝えられ、仕えることの模範としてイエス様が率先して弟子たちの足を洗われたことを記念する聖木曜日、イエス様が十字架刑を引き受けられた聖金曜日(受苦日)、お墓に納められているイエス様を黙想する聖土曜日は「大いなる(聖なる)三日間」と言われますが、これを経て初めて復活日を迎えます。
最後の晩餐を終えられたイエス様は孤独の内に祈られますが、その中身は「できれば十字架で磔にされないですみますように」というものでした。また、十字架を担がされゴルゴダという処刑場へ向かう際、別の人に担いでもらいました。十字架の上でも成す術無しかのようなイエス様の姿がありました。
一方、後に大使徒聖ペテロと呼ばれ、イエス様から直々に教会の礎となるべく命じられ、歴史的には初代ローマ教皇とされるペテロは、散々心を寄せ、砕いてくださったイエス様を裏切ります。十字架へ向かわれるイエス様に指一本貸すこともできなかったどころか、「イエス様など知らない、赤の他人だ」と公言してしまいます。
冒頭に記しましたイエス様やペテロのイメージからは、対極にあるともいえるような姿を聖書はそのまま伝えています。読み手は、意気消沈させられるかも知れません。「期待外れだ」と嘆かれるかもしれません。けれども、なぜここまでして聖書がこのような出来事を包み隠さず後世に伝えているか思い巡らしてみます時、数多のことが言えましょうが、一見弱く見える姿の中に秘められている真の強さ、別名優しさが厳然としてあることに気付かされます。
偽りの優しさを向けられても「何か変だ」「どこか違うのでは?」「優しいようだけれども、なぜか心に響かない」と思うこともあります。かつて神学生の頃教わった歌のフレーズですが、「偽りの微笑と、見せかけの涙だけはやめて、やめてください あなたの心に素直になってください」というものでした。何十年も前に耳にした歌詞が今、鮮やかによみがえってきます。難しいことですが、本当の優しさと偽りの優しさ、一見誠実さを纏った狡さ、自らの犠牲を厭わない人、己の利得のために人を平気で利用する人等々、実に様々です。
話があちらこちらにいきましたが、イエス様の強さや優しさ、それは本当の愛を貫かれたことから生じるものです。裏切りにもかかわらずトコトン愛を注がれ続けたペトロは、真の愛の何たるかを理屈を超えて体得したことでしょう。この経験なくしては、愛も頭の中だけの善悪で判断しかねません。頭で考えた愛は、体験から生み出される愛とは違う愛のはずです。