チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2018年05月02日掲載

小さい頃、余程のいたずらっ子だったからでしょうか、よく言われました。「普通の子は、そのようなことはしませんよ」と。大抵、馬耳東風でしたが、懐かしく思い返してみますと、そもそも「普通の子」って何だろうと思います。平均値なのだろうか、最大公約数なのだろうかと思う一方で、人間をそのように見て取ることは良いことなのだろうかという大きな疑問も浮かんできます。
そもそも、人間は十把一絡げではありません。気付いているか否かはともかく、個々に素晴らしい何か、尊い何かを授かっているはずです。「しかし、でも」と言いたくなることもあります。実は今もですが、これまた幼い頃を振り返ってみますと、とにかく勉強嫌いでした。従って、成績も悲惨なものでした。落ち着きもない子でした。人前で話すのも苦手でした。従って、周囲の大人がどう言おうと、自分は素晴らしい何かを授かっている人間などではない、劣った人間だと、子ども心なりに思っていました。しかし、そういう発想を根底から否定しているのが聖書でもあります。だからと言って、素晴らしい、非の打ちどころのない人間だと言っている訳ではありませんし、欠片程にも思ってはいる訳でもありません。
そのようなことではなしに、今ここに生き、生かされている、そのこと自体が尊くて素晴らしい、奇跡であると言っても過言ではないということです。ちなみに、その道の専門家に伺った話ですが、世界中の全財産を注ぎ込んでも、単細胞一つさえ満足に創ることはできないそうです。そうであるならば、生命体が今ここにあること自体、驚くべき奇跡と言えましょう。
わたしたち人間は約60兆の細胞からなる体を授かっており、さらに一個の細胞に含まれている遺伝子情報は30億の化学文字で書かれているそうです。これは1000ページの本約1000冊分、聖書に換算しますとゆうに400冊以上になります。そのような私たち一人一人は、人類の歴史始まって以来、この世にたった一人しかいません。兄弟や似ている人、仲間は数多いても、他でもないこの自分は一人であり、まさに掛け替えのないものです。ちなみに、掛け替えのないとは、「いざという時に代わりになるものが無い、この上なく尊く、大切な」という意味があります。
ちなみに、食べ物でも、宝石でも、高い値段が付けられているのは、たくさん採れないからだそうです。希少価値等言葉がありますが、人間は希少価値どころか「1」です。人から聞いた話ですが、宝石ということで言いますと、真珠は高価であると同時に人気があり、正装時にも用いられます。海の中の真珠貝には砂や石が入りジャリジャリ感や異物感があることでしょう。しかし、それを排除するのではなく、自分の中から出される溶液で包み込みながら、やがて美しい真珠になっていくそうです。
辛い時、苦しい時、つい誰かのせいにしたくもなります。しかし、真珠のように辛さや苦しみさえも自分の一部にしてしまい、上手く付き合っていくことも出来得るのが人間かもしれません。そして、時間をかけて、いつしかそれらを自分の中の真珠としていくこともできます。そして、その中で背負ってきた痛みは、いつの日か他の誰かの思いに心を寄せることのできることへと通じていくものとさえなりましょう。
そして、真珠が一粒一粒違うように、人はその人にしかないもの、更に言いますならその人だからこそ授けられている輝ける何かがあるはずです。「そんなものなどない!」と決めつける前に、「それはいったい何だろう?」と思い巡らし、時には誰かの手助けを受けながら探し求めていくほうが、遥かに生産的であると言えましょう。