チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2018年06月01日掲載

つい二か月程前、高等科三年生を送り出し、ひと月半前には新入生を迎え、その後オリエンテーション、運動会と続き、夏休みも遠い先のことではなくなりました。
6年間という時間は、計算機を使ってみますと、閏年を除いても2,190日、時間にしますと52,560時間、さらに分にしますと315万3600分、秒にしますとなんと1億8921万6000秒という、「1、2、3・・・」と数えていたら気の遠くなる数字が計算機画面に浮かび上がってきます。しかし、ただ数えているだけで6年間という尊い時間を過ごすのはあまりにも勿体ないことですし、そもそも時間を数えることが大切な場合もあるでしょうが、時間は使うもののはずです、しかも、出来る限り心を込めて。
ちなみに、私たちは数字と無縁に、あるいは全く数字を目にせずに過ごしている日はありません。時計、カレンダー、点数、平均値、健康診断でも数字を目にします。もちろん、たくさんの恩恵にも与っていますが、必ずしも恩恵ばかりとは言い切れません。事件や事故に繋がるケースも否定できません。そのように両面を見てみますと、数字で測ることによって素晴らしい何かに通じること、正確に物事を把握でき、さらにはそれが未来へ繋がる大切なことがある一方で、数字で測ることのできない物事、あるいは数字で測ってはいけない時間もあります。
喜びや悲しみ、ことに命の時間、それは安易に数字で測る訳にはいきません。加えて、「宗教教育とは、命の時間の使い方を学ぶこと」であると思っていますし、願ってもいます。また、一生残るもののために費やす時間こそ、時間の最も大切な使い方であると言えましょう。
話が突如変わるようですが、一学期始業式の礼拝後には毎年、全生徒に向かって話をする機会があります。この四月は、学年ごとに向けての短いメッセージを伝えました。事細かに書き記すには紙面が足りませんが、以下に記してみます。
入学したての一年生には「チャプレンの話が全て聞き取ることができるようになった時が本当の卒業の時、けれども本当に大事なことは何を聞いたかではなく、どう聴いたか、どう聴こえたかである」と。二年生には「後輩が入ってきて、ちょっとお姉さん気分になったことでしょう。でも、(個人的には嫌いな言葉であるが)反抗期という言葉が当てはめられがちな学年だけれども、寧ろ自分と闘っていながら、まだ闘い方が分からない、言葉にできない時期でもあると思う。しかも、それは未来に繋がる闘いでもある」と。三年生には「何かにつけ気の抜けやすい時期とも言われるけれども、『気を緩めるな!』『気を抜くな!』と縛り付けるだけでなく、時に緩めることも大切。なぜなら、「緩む」と「赦す」とは関係のある言葉で、それは自己受容にも通じることと思えるから」と。四年生には「四月から二階席に移動したので、上から目線で見られているような気がするけれども、日常でも上から目線はダメ、なぜなら等身大の自分を見失うから」と。五年生には「種々の活動で責任を担う学年になる。責任とは応答する能力と言われるが、応答とは響き合うことである」と。最高、最終学年の六年生には「進学が気になるものの一つであり、目の前のことをしっかりと見つめることも大事だけれども、目の前のことだけだと世界が狭まる。(中略)目の前の問題ばかり見ていたら、解決が遠退くこともある。誰もが見えないと思っているものを見てほしい」と。
晴れの日もあれば、曇りの日もあれば、雨の日もありますけれども、日々の成長を祈りつつ、キリスト教のキーワード「Becoming」が心に沸き起こってきました。