チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2018年07月01日掲載

多くの教会やミッションスクールの校舎の壁、(本校は未だありませんが)教室には十字架が掲げられています。今でこそキリスト教のシンボルとされ、さらにはアクセサリーとして世代を超えて人気あるものに数えられています。しかし、十字架はキリスト教の発明品ではありません。したがって、現在のように教会などに十字架が掲げられ、飾られる。ということはキリスト教の初期の時代にはありませんでした。むしろ、十字架は古く紀元前からありましたし、ローマ帝国にあっては主に政治犯の処刑に使われるものでした。そのことから、「縁起でもない」「恥の象徴」と言われても否定できないものでもありました。そのような背景を持つ十字架の意味を180度変えたと言っても過言でない、それが、イエス様が引き受け、担われた十字架であり、その中身でした。
キリストの教会でも「十字架=重荷」という言われ方はあります。キリスト教の言い伝えの中では、十字架の横棒という重荷を担がされ、ゴルゴダという名の処刑場所へ向かわれたイエス様は、その重荷に耐えかねて三度転ばれたと言われていますし、大斎節(受難節)に行われます「十字架の道行」という礼拝の中ではその場面があり、黙想のテーマにもなっています。
今でこそ、その礼拝にも参加し、聖書も子どもの頃よりは少しばかり分かってきた気がしていますが、当初この場面を見聞きした時、不遜にも思いました。「申し訳ないけれど、イエス様って情けない」「イエス様なのに、何で十字架を負いきれないの?」「何でイエス様ほどの人が十字架の重荷に耐えられず転び、無様なありさまを人目に晒し、さらに情けないことには、その十字架を他人に担いでもらい、やっとのことで処刑場に辿り着けたとは!」、その後には「ガッカリ」「失望」「頼りがいが無い」などの言葉が心を過りました。しかしながら、これ程非キリスト的であり、反聖書的な発想はありません。加えて、これ程イエス様の心を無視し、踏みにじっていると言っても過言でないものもありません。
情けないことに、事の真意が分かるようになってきたのは大分経ってからのことでした。あの一見情けなく見えるイエス様の姿が発しているメッセージとは、「転ばぬように、転ばぬようにと心がけ、歯を食いしばって頑張ることも大事かもしれないが、人は誰だって重荷に耐えかねて転ぶことはある。大事なのは、転んだ後どうするかであり、辛い時には誰かの力を借りてもいい、求めてもいい、担ってもらっても構わない、一人きりで抱え込まなくてもいい、そして、いつか自分が誰かの重荷を担い合う者になればいい、それが人と人との繋がりなのだから」というものではないでしょうか。
一事が万事甘えさせるとか、人への押し付け、丸投げは褒められることでも、勧められることでもありませんが、時として甘えさせてあげる優しさがある一方で、変な言い回しになりますが、人に甘える優しさのようなものもあるのかも知れません。ともすれば、「甘え」「甘える」という言葉は否定的に捉えられることがありますし、過剰な異存は如何なものかとは思いますが、しかし、相手への信頼の証になることもあります。幼子たちから教わることでもあります。
「転ばせない教育」が全くの無駄とは思いませんが、「転んだら負け」の教育は、しばしば傲慢さという優しさを欠いた心を生み出しかねません。それよりも、転んでしまったことで得る何かがある、例えば痛みを感じる心、転んだ人への共感、差し伸べられた誰かの手や心の温もりへの感謝のほうが、より豊かな糧となるのではと感じます。ちなみに、イエス様が担われた十字架の中身とは、誰かの重荷、痛み、心でした。