チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2018年08月01日掲載

本来なら、毎日がそうでなければならいことですけれども、とりわけ私たちが暮らしている日本では、8月になりますと「平和」ということが強調され、マスコミをはじめ広く話題に挙げられます。また、様々な式典でのスピーチやメッセージの中でも「平和」という言葉が繰り返されます。
今を遡ること二千年前、既にイエス様は、「神様による平和」「イエス様自らが打ち立てられる平和」というものを再三再四言われ、形作り始めていかれました。冒頭に述べましたように、昨今、世界中で「平和」が語られない日は無いと言えますが、既にイエス様ご自身、政治問題としてでは無く、あくまでも神様の働き、命の出来事として「平和」を語られ、形作られました。したがって、当然のことながら「平和」を巡ってのイエス様の言葉も聖書に収められています。
この「平和」を巡って、もう二昔近く前のことになりますが、思い出すことがあります。当時、フィリピンのケソン市にありますローマ・カトリックの聖ドミニコ大修道院で研修をしていた時のことです。毎週水曜日の夕刻に「Fathers Gathering」と題した司祭たちの集まりがありました。毎回、聖書を基にその日の担当が会をリードします。四十人近い司祭たちですが、大学院で教鞭をとっている学者の司祭たち、留学経験豊富な司祭たち、現場での活動に従事している司祭たちと、各々の経験や学びに基づいて話をされます。分かり易く身近に感じられる話も少なくない中、スコラ哲学を完成させた、キリスト教世界を代表する神学者である「トマス・アクィナスの生まれ変わり」と言われていた老司祭の話は、申し訳ないことにチンプンカンでした。
そのような中、上述の「平和」が話題となり、「日本語でPeaceとは何というのか?」との質問を受け、「HE・I・WA」と答えたのを思い出します。すると、さらに「では、そのHE・I・WAは、どのような意味か?」と尋ねられ、はたと困った時、口から出任せのように発したのは、「確固たる、揺るぎない命の秩序と調和」というものでした。
キリスト教の歴史を振り返ってみますと、とりわけ中世という時代には、十字軍、魔女刈りや宗教裁判、ユダヤ人迫害,イスラム教への攻撃、キリスト教内部での争い等々、枚挙に暇が無い程でした。それらの出来事の中は、揺るぎない命の秩序、調和とは凡そかけ離れた、あるいは正反対といっても過言ではないものでした。
そのようなことへの深い反省も込めてのことでしょうが、嘗て、世界中から宗教者が集まった際にこういうことが言われました。「人類は、一人一人が自分以外の人とも平和に暮らしているので無ければ、本当に平和とは言えない。そして、その平和の源とは、一人一人の中での自分との闘いにかかっている!」と。歪んだエゴイズムと闘い、頑張って乗り越えていく勇気は、並大抵のものではありません。けれども、過去に学び、今、そしてこれからを思います時、真の平和とは、安逸な事を貪りがちな自分、自分の利益を常に優先させたがる自分、秩序を乱しがちな自分との闘いを抜きにしては得られ難いということに気付かされます。
また、毎日の生活の中で八方塞がりとしか思えない時、祈り、黙想しても穏やかになれず、心乱れ、重苦しさだけが増すばかりの時もありますが、そのような中、(奇妙な言葉遣いですが)シッカリと苦しみを受け止めようとする時、案外何かが見え始めてくるという不思議なことも起こり得ます。
現ローマ教皇フランチェスコは言われました。「架け橋でなく壁を築こうとする者はキリスト教徒ではない!」と。小さくとも、平和を築く一人一人でありたいものです。