チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2018年09月01日掲載

世間では「夏休み」というものの、本当に休む間もなく「夏休み」を過ごしている人も少なくないように思えます。「とりわけ日本人は、休み下手」と言われたり、「休むことは悪であり、怠けることである」という受け取られ方をしたりということも無いわけではありません。その理由は数多あるでしょうが、一方では「忙しいという文字は、心を亡くすことである」という言葉に考えさせられるところ大です。また、自らを振り返った時、「本当に忙しいのだろうか?」あるいは、「単に時間の使い方が下手なだけなのだろうか?」「忙しいと思い込み、思い込まされているだけではなかろうか?」等々、これまたいろいろと考えこまされます。
ただ、心に留め、時に自戒しなければならないと思いますのは、「本当に忙しい人は、忙しいとは言わないし、無駄にバタバタと走り回らない」という言葉です。同時に、忙しいと思っている自分に酔ってしまうことも避けたいものです。
話が変わるようですが、今年も「中等科一年山荘生活」がクラスごと、二泊三日ずつで行われました。一部スタイルが変わったところもありましたが、単なる「お楽しみ会」ではなく、あくまでも教育プログラムである以上、それなりの効果も期待されますし、ことに生徒たちのこれからの生きざまの中に何かしら糧となるものが注ぎ込まれ続けることを願ってもいます。
その「山荘生活」は、朝8時頃に大型バスで学校を出発しますが、最初に行く所は軽井沢ショー記念礼拝堂です。それは、恰も「〇〇ツアー」さながらに名所を辿るとか、ミッションスクールゆえ、数多くの教会がある軽井沢に行ったからには教会の一つも巡らないと格好がつかないからという理由では全くありません。その礼拝堂聖別を司式されたのが、香蘭女学校創立者のエドワード・ビカステス主教だからであり、加えて、ガイドブックやインターネットでは知ることのできない豊かな、それもキリスト教信仰に根付いた話も伺う貴重な時間でもあるからです。アレクサンダー・クロフト・ショー司祭、エドワード・ビカステス主教、福沢諭吉先生といった名前も、伺う話の中に出てきます。生徒たちの心には新鮮な驚きや発見が芽生えたことでしょう。実際に話を伺うのは礼拝堂の椅子に座ってのことですが、「ゆっくりと佇む」思いがします。高速バスや新幹線、飛行機とは違い、ゆっくりした時間は視野を広げ、豊かに想像を膨らませてもくれます。目や耳や心を豊かに使って360度見渡せるような気さえします。見落としたり、聞き逃したりしてはならない時、人はゆっくりと佇むはずです。
今では様々な高性能映像機器が生み出され、実に鮮明な画像をプロでなくとも撮ることができるようになりました。大変便利になり、幾多の恩恵も被っています。夥しい数の写真を保存しておくことも容易になりました。「感動をプリントに!」というキャッチフレーズも浮かびますが、その折々に心に感じたり、驚いたり、感激したりしたそのものをプリントすること、機械に保存しておくことはできません。
換言すれば、見える何かを通して、その背後にある何かをも感じ取ることができた時、一層見える中に輝きが増してくるのではないでしょうか? 見える何かを通して見えない何かを見出し、感じる心を身に着けた時、人の人生により一層の深みと豊かさが増し加えられていくのではないでしょうか? 「見えないものなど信じているから心が乱されたり、不安になったり、振り回されるのだ」と言った人がありました。考え方は人それぞれでしょうが、見えるものだけにしか価値を見出せない、信じられないというのでは、どこか淋しい気もします。背景にある素敵な何かにも心を向けたいものです。