チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2018年10月03日掲載

2018年、私たち(の)香蘭女学校は創立130周年の感謝の時を迎えています。冒頭「の」の字をカッコで囲みましたのは、私たちの学びや働きの場である香蘭女学校という意味では「私たちの」となりましょうが、私たち一人一人が香蘭女学校そのものであるという意味では「私たち香蘭女学校」ということで、二つの意味を掛け合わせました。
その感謝、記念するべき中、多くの先生がたの奉仕と尽力により8月から約ニケ月間、立教池袋キャンパス構内にあります立教学院展示館にて、130周年の展示会が催されました。前日、7月31日午後にはオープンに先立ち展示館内で礼拝が捧げられ、多くの方々と祈りの時を持ちました。礼拝後、学院長であり、館長でいらっしゃる広田主教からのメッセージの中、「この展示館はオープンして5年になるが、礼拝を以て展示会を始めたの香蘭女学校が初めてです」という言葉があり、嬉しい驚きと感動をいただきました。
私自身、聖公会の学校で育ちましたが、子ども時代を振り返ってみますと、礼拝の折、今思い返しても恥ずかしいことですが「面倒くさい」「いつ終わるの?」「つまらない」、さらには不謹慎なことに「祈ったって何になる?」「祈りなんて気休めでは?」「所詮、祈りなんて綺麗ごとの羅列ではないか」と思ったりもしたものでした。
やがて時の流れとともに、ふと自分の祈りを振り返った時、「このようなことを神に祈るのは申し訳ない、失礼だ」などと一見謙虚そうな言い方ですが、勝手に取捨選択をし、祈りを神に献げるとは名ばかりで、その実は単なる独り言、自らの中だけの呟きとなってもいました。けれども、真の祈りとは心の内のありのままを献げ、差し出すものです。その模範を古くは、エジプトで奴隷の生活を強いられていたイスラエルの民を導き出したモーセや信仰の父と言われるアブラハム、新約の世界にあっては聖母マリアやイエス様の祈りに見て取ることができます。
ニューヨークのリハビリテーション病院の壁に次のような詩が書き残されています。「大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く、従順であるようにと弱さを授かった。より偉大なことができるように健康を求めたのに、よりよきことができるようにと病弱を与えられた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるように命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ」という祈りであり、信仰を告白した言葉です。
話が急に変わるようですが、かつてイギリスからの帰りの便で「あん」という、先日亡くなった樹木希林さん主演の映画を見ました。「ハンセン病」という重く難しい問題を扱っていましたが、見終わった後なぜか温かく、優しい気持ちにもなりました。その作品中、次のような台詞がありました。
「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だから何かになれなくても、私たちには生きる意味がある」「人生は見て聞いて感じ体験するために、少しでもいいもの美しいものを見たいし聞きたいし感じたい」「優しい言葉を聞いて優しい言葉を伝えたい」等他にもありますが、私たちが大切にしている祈りに通じるものを感じます。