チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2016年09月01日掲載

夏休みには、多くの人が海や山への旅行のために移動し、日頃持ちにくい「遊びの時」を持ちもします。一方で、「最近の子どもたちは塾やお稽古事で忙しく、外で遊ぶ時間がなくなってきた」とか、「最近は、日の暮れるまで外で遊んでいる子どもたちの姿をあまり見かけなくなった」という年配の方々の声を耳にすることもあります。

もっとも、最近の子どもたちが全く遊ぶことをしなくなったとは思えません。むしろ、遊ばなくなったのではなしに、外で遊ぶ時間が極端に減ってきているか、遊びの中身、形が変わってきたと言えましょう。遊び道具の変化やコンピューターゲームの波及に因るところも大きいように思えます。あるいは、既に出来上がったものを手に入れ易くなったことで、創意工夫して素材から何かを創る(作る・造る)機会が減ってきたのかも知れません。  

一概に善し悪しを決め付けることはできませんが、本来「遊び」というものは時間を必要とします。空間を必要とします。そして、「一人遊び」というものもありますが、仲間を必要とします。そして、これら「時間」「空間」「仲間」には全て「間」という文字が伴います。

この文字を巡って、日本を代表する芸能に通じる方が言われました。「落語でも、芝居でも間のないものを、本当の『間抜け』と言うのだ」と。間の無い落語、間の無いお芝居の動きや台詞、音楽などは見聞きしていて、何とはなしに落ち着かず、忙しなさを感じさせられます。礼拝に於いても、この「間」は重要な役割を担っています。また、スポーツや武道の世界でも、この「間」は大切にされています。あるいは、人と人との間の無い満員電車やエレベーターなどでは息苦しさを感じることがあります。これら全ては減り張りが無く感じたり、身動きが取れない状況に置かれたりすることに因るものでしょう。

一見、音も動きも全く無いように感じられる「間」ですが、実にこの「間」の有る無しが日々の生活の中でも、何かを左右する程に大切なものであるかを、ふと思わされることがあります。「行間を読む」という言葉にも、大いに通じるところがありましょう。「間」とは単に音や動きが無いものでは無しに、目に見えず、耳に聞こえずとも大切な何かを秘めているものであると言えましょう。

ちなみに「間を取る」とは、国語的には「適切なタイミングをはかることであり、ちょうどよい長さの空白の時を作り、そこから行動を起こすこと」だそうです。簡単なことではありませんが、「時を見分ける(見極める)こと」「行動につなげていくこと」、加えて「バランスを保つこと」と「間」は大いに関係があるようです。同時に、このことは聖書に秘められているメッセージにつながるところが大いにあるようです。