チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2018年12月01日掲載

月日の経つのは早いもので、2018年も余すところひと月を切りました。この一年を振り返ってみますと、喜怒哀楽を引き出す様々な出来事がありました。楽しいこと、嬉しいことしかなかったと言えたら素敵なことですが、そうはいきません。心が重くなること、暗い気持ちになったり、させられたりすることも皆無ではありません。しかし、一日の最初の一言は明るい言葉を言ったり、思ったりすることに努めてみますと、それに続く言葉や気持ちも自然と前向きになりがちです。明るい挨拶、明るい笑顔など、人にだけではなく自分に向けることもできそうです。
前号の終わりに、あるホテルで目にした光景のことを記しました。重複しますが、若いフロント係の方が、作り物ではない温かみのこもった笑顔でチェックインする宿泊客に向かって「お帰りなさいませ」と語り掛けていました。宿泊中の客が外出から帰ってきた時ならともかく、明らかにチェックイン時のことでした。「いらっしゃいませ」という型通りの挨拶でない言葉に素敵なものを感じさせられました。もちろん多くの客はホテルに住んでいるわけではありません。しかし、単にゆっくり過ごしてほしいとの願いに止まらず、例え一泊か数日であっても、大切な居場所の一つであって欲しいとの心を感じさせられる言葉として聞いていました。
そして、この出来事は改めて「本当の居場所とは?」ということを考える切っ掛けにもなりました。居住地や建物、地図上の一点も居場所であるには違いありませんが、それ以上に自分が心から大切だと思える何か、できればいつもそばに、心の中にいてほしいと思う誰か、自分のことを心に留めてくれている誰か、自分を見出すことのできる何かが本当の居場所と言えましょう。さらに突き詰めていきますと、自分の存在を受け容れ、受け止めてくれる、私たちと同じ人間というところに行き着くのではないでしょうか。
かつて一世を風靡しました「千の風になって」という曲がありました。「私の居場所はお墓の中ではない、あなたの命の中です!」といった意味のことが歌われていたことを思い出します。喧噪慌ただしく、不信や不安が渦巻く中、年齢に関わらず誰もが自分の居場所、安心できる場所、地を出せる場所を求めています。そのような中で、ふと「あの人には居場所があっていいなぁ」と思う時もあります。しかし、そう思われているその人も居場所を求め、探し続けていることも案外あるものです。そして、自分もまた必死に居場所を求めて悩み、苦しんでいる、そういう自分を認めてもらいたいと願っている人たちもいます。
まもなくクリスマスがやってきます。聖書を繙きますと、イエス様のお誕生を巡る次の一文があります。「彼ら(マリアとヨセフ)がベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:7)と。驚くべきことに、聖家族には泊まる場所がありませんでした。そして、飼い葉桶という衛生面からしましても赤ちゃんを寝かすには相応しくない場所へと追いやられました。
けれども、イエス様は全ての居場所を奪い取られはしませんでした。神様の計り知れない愛と憐みの内に揺るぎない居場所がありました。そして、もう一つ忘れてはならないイエス様の居場所があります。それは、いろいろなものを抱えている私たちの心、命の営みの只中です。「You will never walk alone」、サッカーの応援歌としても有名になりましたが、「居場所とは?」へのヒントになるのではないでしょうか。