チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2016年10月01日掲載

今夏、リオデジャネイロでオリンピックが、それに引き続きパラリンピックが開催されました。その折、水泳競技を観ながら幼い頃のことを思い出しました。当時、水泳が大の苦手であり、嫌で仕方ありませんでした。洗面器に水を張り、息を止めて頑張りはしたものの、怖くて直ぐに顔を上げてしまったり、少し頑張りはしたものの鼻から水を飲んでしまったりと、何度も苦しい思いをしたものでした。何とか泳げるようになりたい、でも怖い、その狭間で幼いながらも苦しんだことを懐かしく思い出しました。

そのような中、半世紀近く前、小学校一年の夏休みのことでした。泳ぎの苦手な生徒たちが集められ、水泳教室が行われました。担当してくださった先生は、なんと図工の先生でした。しかも、泳げるようになる術を教えてくださるより前に、いきなりプールに入れられ、ロープの一端を私の胴に、もう一端をご自分が手にされている竹刀の先に縛り付け、泳がされると言うより、釣り手に振り回されている魚然りでした。

今では考えられないことですが、時代もあったのでしょう。当時の自分の姿を思い出すだけでも笑いを止められませんが、この想像を絶するシチュエーション以上に心に残ったことがありました。それは、竹刀を手にしていらした先生の言葉でした。「絶対に手を離さないから力を抜いてごらん!」「ちゃんとつながっているから、安心しなさい!」というものでした。

以来、泳ぐことが苦ではなくなり、心地よく水に浮くこともできるようになりました。無駄な力を抜けば自然に体が浮くことを体得したこともさることながら、つながってくれている誰かがいること、「つながり」が生み出し与えてくれる力があること、恐怖でしかなかった水の中でも、そのつながりへの確信ゆえに独りきりではないことを、難しい理論ではなしに身をもって教えられたことは、豊かな宝となったと言っても過言ではありません。本来、私たち人間とは、つながりの中で命を授かり、命を重ねていくものなのでしょう。笑い、涙し、怒り、落ち込み、元気な自分というものがあります。しかし、そのような気持ちや心を醸し出すことができるのも、気付く、気付かないはあるものの、誰かとのつながりがあるという安心感ゆえのことが多々あるはずです。

次の言葉は、パラリンピックで金メダルに輝いた選手の言葉です。想像しますに、本人の計り知れない努力ゆえのものであることは疑う余地はありませんが、同時につながりを持ち続けてきた仲間たちあってこそ生み出された言葉としても聞こえてきます。「失ったものを数えるな、残されたものを最大限に活かせ。人は誰もが、生きたしるしを刻んでいく。私たちの傷あとは、私たちが生き、人生から逃げなかったことの証なのだ」「救いの手は誰にも伸ばされる。その救いの手を逃すか、つかみとって前向きに生きるかの違いだけであって、みんな平等なのだよ」。