チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2020年05月01日掲載

「希望」

 昔、ある文芸評論家が「人間」という字を「じんかん」と読み、人間とは人と人との間に生きる関係的な存在であるということを語っていました。たしかに人間は他者との出会いと関係の中で生きていきます。特に学校の価値は生徒たちと教師、そして生徒同士が出会い、関係の中に生きることを大切にしていくというところにあると言えます。そう考えると新型コロナウィルス感染の蔓延によって学校に登校することもできず、人と人がかかわりを持つことを避けることを求められている現実は、命を守るためにやむを得ないことと知りつつも実に悲しいことに思います。 
 以前、聖書の授業で高校生に「人生に意味はあるか」というテーマで話し合ったことがあります。多くの生徒が、人生には意味があると答えていました。そして意味があることの理由として、自分を支えてくれる人たちがいるからと答えていました。他者によって支えられているということが人生の意味なのだということでしょうか。エマニュエル・レヴィナスという哲学者は「他者は根源的な意味だ」と言いました。生きることの意味は他者に憧れ、自分を他者に差し出すことだと考えているのでしょう。他者との豊かな出会いの場である学校の大切さを実感します。学校における授業、部活、様々な行事の中に他者が存在し、出会いの可能性が秘められ、生徒たちはそこで人生の意味と価値を知ることになります。 
 しかし、現実の学校は必ずしも純粋な出会いと愛の関係だけではありません。時に人間同士の争い、いじめや憎しみ差別なども起こることがあります。そういう過酷な現実の中で生徒も教師も時に失望し、絶望するようなこともあるのです。 
 エリ・ヴィーゼルというユダヤ人作家の作品に15歳のときのアウシュビッツ体験を描いた『夜』があります。戦争末期に次から次へと収容所をたらいまわしにされ、極限の中で人間は何を思い、どのように行動するかを見つめて、自分自身の心の動きや行為をも抉り出した作品です。飢餓の極限で貨車の中に投げ込まれた一きれのパンをめぐって、同胞同士が殴りあい、殺しあう。父親が取ったパンを息子が父を殺して奪い取る。その息子もまたパンを口にする前に他の男たちに殺される。ヴィーゼル自身が衰弱していく父を見ながら同じような思いにさいなまれるのです。このような経験の中でヴィーゼルは人間が狂っているということを越えて神が狂っているとさえ考えるのです。彼は「神が狂っているならば、被造物が狂っていても当然である。被造物である我々はただ自分の苦しみを訴え哀れんでくれと懇願するばかりだ」と語り、絶望の中で、なお希望を見出そうとするのです。 
 彼の苦難と苦悩ほどではないにしろ私たちにも、人間関係や勉強、受験、仕事、また新型コロナウィルスによる出口の見えない不安など人生の困難な現実に直面し、希望を持てないことも事実です。聖書はしかし、このような中にも「希望」を語ります。どのような状況の中にあっても決して失われることのない「希望」を告げているのです。たとえ私たちが「希望」を見失うようなことがあっても、その私たち自身を神さまは「希望」として見てくださるのです。香蘭女学校につながる私たちはこのような困難な状況の時にこそ、「希望」を語り継ぐことが大切です。 
 「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマの信徒への手紙5章3節~5節)

香蘭女学校チャプレン  杉山 修一