チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2020年12月01日掲載
クリスマス、その闇の神秘
クリスマスが近づいています。イエス・キリストは、旅先に泊まった旅館の馬小屋でお生まれになりました。では、なぜ人類の救い主であるキリストが、極めてみすぼらしいところである馬小屋でお生まれになったでしょうか。その出来事には、今日の私たち人間にもたらされる大きな意味がありますが、そもそもそれとは何でしょうか。
馬小屋は、一言で言えば汚くて臭いところです。何回掃除をしても、すぐ汚物と干草でまぜこぜになり、それらが混ざって腐る臭いがするところです。しかし、それらはただ汚いものだけではなくて、後に肥やしに変わるものでもあります。発酵された動物の糞は、素晴らしい肥料になるわけです。深層心理学者カール・ユング(Carl Gustav Jung、1875-1961)は“人間は、キリストがお生まれになった馬小屋であることを記憶しなくてはならない”という言葉を残しました。彼の話に準じて考えてみますと私たち人間はまさにその通りです。誰一人、純粋で綺麗なことだけを心に入れている人は、一人もいません。人間の内面は、長年の間に積み重ねてきた、心の傷跡や抑圧された記憶、例えば、他人に対する怒り、自責の念、恨み、恐怖、心配などが、まぜこぜになっています。それらは、消したくてもなかなか消せないし、無視したくても隠そうとしても思い通りには出来ないものです。一時的に忘れることは出来ても、決して無くなるものではないわけです。ある意味で、人間の内面は、汚物だらけの馬小屋のようなところです。
つまり、馬小屋とは、過ちや心の傷などの霊的な暗闇でまぜこぜになっている、私たちの心のことを象徴する空間なのですが、なんとキリストはそういう所にお出でになったということです。クリスマスは、私たちの馬小屋のような心にキリストがお出でになったことを新たに思い起こし、また記念するひと時なのです。誤解してはいけないことがありますが、キリストは私たちが清くて綺麗だからではなくて、私たちを愛されるからお出でになるのです。そのように、キリストがいろんなことでまぜこぜになっている馬小屋のような心にお出でになることによって、私たちの内面の霊的な暗闇は変えられます。お生まれになったキリストの光によって、過去の抑圧された記憶や心の傷跡、過ちやわだかまりなどは、これ以上汚物ではなくて、肥やしに変わるわけです。キリストが、私たちの心の暗闇と混沌の中にお出でになる事によって、私たちの全てが変えられるということ、それこそがクリスマスを通してもたらされる恵みです。キリスト教神学の一つの分野である霊性神学において、こういう恵みのことは「闇の神秘」や「罪の神秘」とも表現されますが、クリスマスは、まさにそういう神秘を記念する祝日だと言えます。
このようにクリスマスは、馬小屋のような霊的な暗闇を持っているにも拘らず、いやそういう存在であるからこそ、そして今も悲しみと苦しみの中にあるからこそ、そういう私たちの中にキリストがお生まれになって、道と真理と命という真の光となってくださる、ということを再確認する日なのです。その掛け替えのない恵みが、すべての生徒と家族、教職員を始め、香蘭女学校と関わりを持つ全ての人々の上に豊かにありますようにお祈りいたします。
香蘭女学校チャプレン 成 成鍾