チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2016年11月01日掲載
日頃、それこそ普通に、これといって深い意味も考えずに使っている言葉を巡って、改めて考えさせられるものがあります。その一つに、冒頭に書きました「普通」という言葉があります。
「普通列車」とは主に各駅停車のことのようですが、「普通」という表示を目にします。「普通盛りでいいですか?」と問われ、即座に「普通で」とか、「麺の硬さは普通でいいですか?」に対しては、「硬めで」「柔らかめで」となります。高速道路の出口にも「普通車」と料金表にはあります。
考え出すと、益々混乱を来してしまいます。自分にとっては「普通盛り」のご飯でも、関取から見ればお猪口にでも盛ったご飯に見えるかも知れません。「普通列車」「普通車」があるからといって、「異常列車」や「異常車」がある訳ではありません。
ちなみに「普通」という言葉は、Ordinaryと訳されるケースが多いと思いますが、その語源はラテン語の「Ordo」、即ち「順序」「秩序」にあり、英語にすると「Order」となります。キリスト教世界では、聖職者を「Holy Order」、修道会では「Order of Preachers」(ドミニコ会)とか「Order of Carmelites」(カルメル会)のように、その会の名称に使われます。
さらに、私たち人間のありように思いを馳せてみます時、「普通の人」とか「普通に生きる」とはどのようなことなのだろうかと思います。「当たり障り無く、リスクが少ないことなのだろうか?」「親なりに決められ、敷かれた道を忠実に行くことなのだろうか?」「冒険やチャレンジを極力避けることなのだろうか?」「余分なエネルギーを使わず、省エネ的に生きることなのだろうか?」等々浮かんでは消えていくように、個人的には今ひとつしっくりせず、心にピッタときません。マジョリティーの中で、多くの人との共通点が多いことに因るのとも違うようです。
そこで、先に述べました「Ordo」に立ち返ってみますと、朧気ながらにも何かが見え始めてくる気がします。日常で使われています「普通」という言葉は、様々な意味合いで使われています。しかし、何れの使い方をするにしましても、「秩序」の有無は蔑ろにできないように思えます、殊更生き方や命の使い方を考える時には。
かつてフィリピンのケソン市にありますドミニコ修道会の本院で生活していました時、「日本語で平和は何と言うのか、そしてその意味は?」と尋ねられた時、深く考えもせず口から出任せのように発した言葉は、「Stable Harmony and order」でした。正解らしきものは言えませんし、そうそう簡単に導き出せるものとも思いませんが、少なくとも「普通に生きる」とは、揺るぎない秩序と調和が蔑ろにされたり、後回しにされたり、況してや、無視されているようなところには生み出され難いものなのかも知れません。そして、「普通」は平和を抜きにしても生み出されないものです。