チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2021年03月01日掲載

「香蘭女学校と教養の精神」


 3月になり今年も卒業の季節になりました。香蘭女学校を卒業される高校3年生のみなさんにとって6年間の香蘭女学校の生活は振り返ってどのようなものだったのでしょう。  香蘭女学校は135年前にE・ビカステス先生によって始められました。この学校は集うものが世界の森羅万象を学問として学ぶその根底に「祈りの実践」を置いていました。祈りこそが学校を支える力だと考えたのです。香蘭女学校は祈りの共同体として今日まで存在してきました。祈りなくして香蘭女学校の存在はありえないということです。みなさんは卒業後、礼拝に参加することも少なくなることと思います。しかし、みなさんが真に人間らしく生きることを求めるならば、そこに祈りの心が求められるはずです。みなさんが祈る心を決して忘れないことを私は願っています。

 例年行われているバザーやヒルダ祭に参加して、そこにみなさんの見返りを求めずに自分を犠牲にするような働きがあり、香蘭女学校が大切にしてきた真の教養の精神を見た気がしました。ヨーロッパでは13世紀頃から「個人の意識」が芽生えたといわれます。それまではヨーロッパでもあまり個人という意識はなかったらしいのです。1215年に行われた「ラテラノ公会議」でキリスト教徒は年に1回は告解をしなければならないことが定められます。告解とは信者が神に罪の告白をすることです。信者は神父に自分の犯した罪や過ちを話し、罪を赦してもらうのです。この告解から、自分の行動や生き方を内面に照らして見つめるということが行われるようになり「個人の意識」が生まれたのです。つまり私はどのように生きたらよいのかということが広く一般に浸透していったのです。この私はどのように生きるかと問うことから教養というものが生まれました。日本では教養というと広い知識を持っていることのように考えるのですが、実は教養とは「個人の意識」に目覚めた人間が如何に生きるかということを考えることの中にあると言えます。人間が自立した個人、自立した存在として自らの生き方を選ぶ、そこに教養というものがあるのです。それはまた、自分以外の他者に対する配慮や他者の尊厳を大切にすることにもなります。どんなに高い学歴があっても豊かな経済力を持っていても人間として如何に生きるかという問いを持たない人は教養のない人間ということでしょう。香蘭女学校はこの、本来の意味における教養ということを大切に考えてきたのです。学校で学ぶということも単なる知識の獲得や、進路獲得の手段ではなく、私は如何に生きるべきかと問いつつ学ぶことが大切と考えている学校なのです。

 ハンス・ゲオルグ・ガダマーというドイツの哲学者は「教養」、ドイツ語でビルドゥンクというのですが、ビルドゥンクとは自分をはるかに超える偉大な思想によって自分の小さな狭い考えが打ち砕かれ、その自己否定をばねとして新しい自己を作り上げていく自己超越の運動を意味するのだということを語りました。みなさんにはお解かりいただけると思います。香蘭女学校がなぜ毎日礼拝を行うのか、修学旅行であれ、校外行事であれ礼拝を欠かさないのか。時に応じて援助を必要とする人のために献金を行い、ボランティアに参加するのか。これらすべては、みなさんが、自分を遥かに超える大きな存在との出会いの中で、狭い自分を超える視点を持って欲しい、自立した個人として真の教養を身につけて欲しいと願ってきたからなのです。内村鑑三という人は「後世への最大遺物」という本の中でメリー・ライオンの言葉を紹介してこういいます。「他の人の行くことを嫌うところへ行きなさい、他の人のやるのを嫌がることをしなさい」。

 みなさんにはそれぞれ使命を持った生き方をしていただきたいと願っています。


香蘭女学校チャプレン  杉山 修一