チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

金大原チャプレン イースター・メッセージ

 キリスト教には最も重要な柱と言える祝日が二つあります。一つはクリスマス、降誕日とも言い、ご存じの通り、イエス様の誕生を記念する日です。もう一つはイースター、日本語では復活日、すなわちイエスが死んでから甦られたことを記念する日です。この中で二つ目の復活ということに疑問を持つ人が多いでしょう。クリスチャンは本当に復活を信じるのか、死んだ者が蘇られると信じているのか、それが理性的に、また科学的に可能なことなのか、という疑問です。どうして、クリスチャンたちは、人類の科学文明がこんなに発達した21世紀にその神話のようなことにこだわっているのでしょうか。

 イエス様の復活は2千年前の出来事ですが、実は、その2千年前にも、聞いてすぐに理解できたわけではありません。先ほど読まれた聖書に出る女性たちも、最初は正気を失うほど驚いて逃げ去ってしまいました。お墓が空いていても、イエス様が蘇られたことを現実として受け入れることはできませんでした。この女性たちの話を聞いた弟子たちも、たわごとだと思って信じませんでした。当たり前です。経験したことも、聞いたこともないことを信じるわけにはいかないでしょう。

 理解できないことを聞いたり経験したりすると、普通はそれを自分なりに説明しようとします。それで、イエス様の処刑に関わった人たちは弟子たちがイエスの遺体を盗んだのだという噂を広げようとしました。処刑の場から逃げていた弟子たちが恥を覚え、考え直して師匠の遺志を継いだことをこう言うのだと解釈する人もいます。でも、2千年間も覚え続けられ、今も世界各地の数億のクリスチャンたちが復活を記念している理由としては不充分でしょう。

 やはり疑問は残ります。聖書はあくまで事実確認不可能な2千年前の記録であって、果たして復活は実際のことなのかということです。


 しかし、世の中はそんなに理性的ではありません。この21世紀にも理性的に説明できないことはたくさんあります。ただ、そのすべてを理性的に解釈し説明しようと頑張っているだけです。それが科学です。ですから、科学者たちの中でも、根本まで問い正すとほとんどが偶然から始まったことを、そしてすべての根底には言葉で説明できない何かの力があることを認める人が多くいます。

 自分の経験を一つ紹介します。知り合いの方が急に入院したという連絡を受けて見舞いに行きました。頭の後ろ側に腫瘍ができて手術をすることになったけれども、悪性ではないから心配することはない、ということだったので短く祈りをして病室を出ました。お医者さんからの伝言があって伺ったら、「司祭にお願いがある。手術の時間に祈ってほしい」と言われました。「簡単な手術だと聞いたのに」と言うと、「脳手術において簡単といえる手術はない。特にこの患者の腫瘍は延髄に近くて、少し間違えば命が危ない。自分はこの分野において権威があり、自信もある。しかし、今まで何百回も手術をしてきたけれども、自信があるから成功し、ないから失敗するとは言えない。成功と失敗は自分の実力とは関係ないことが分かった。自分には宗教がないが、見えない力があることは分かっている。だから、ぜひ祈ってほしい」ということでした。

 クリスチャンというのは、このように、理性的に説明できない出来事と経験を通して神様に出会い、信じるようになった者たちです。証明できないから信じると言うわけです。これが信仰です。ですから、信仰を持つと、特定の出来事において、証明できるかどうかではなく、その意味、或いはメッセージを読み取ろうとします。今日も、このイースター礼拝をすることで、キリスト教の信仰を持ってほしいわけではなく、イエス様が、そして弟子たちが、この復活の出来事をもって人々に伝えようとしていることに耳を傾けてほしいと思っています。


 では、イエス・キリストの復活は私たちに何を語っているのか。イエス様に従っていた女性たちは、イエス様は死んでしまったけれども、その遺体をキレイにしておきたいと思って朝早くお墓に向かいました。でも、心配事が一つありました。墓の入口は大きな石で塞がれているのに、誰がそれを転がしてくれるか、ということでした。しかし、彼女たちがお墓に到着したら、その大きな石はすでに転がしてありました。

 まさにこれです。「どんなに大変なことがあっても、どうしようもない状況に置かれても、でも、心配することはない。あの大きな石はすでに転がしてあるから。解決できない問題で落ち込むことはない。神様はすでにその問題を解かれている。神様を信頼し、愛をもって問題に向き合えば解決の道は見えるはず。」これが復活の信仰です。

 復活日を意味する英語「イースター」は「春」を意味ずる「イースト」という言葉から派生しました。万物が蘇る季節「春」と、どんな苦しみでも必ず乗り越えられることを信じる復活日の語源が同じということです。これはとても意味が深いと思います。

 ある小学生が書いた詩を一つ紹介します。「春とトウモロコシ」というタイトルの詩です。


  春の日に、トウモロコシの種が新しい人生を始める。

  地面に埋められ、暗い世を過ごし、

  小さい芽から始まって、明るい世の中に出てくる。

  今日も一つのトウモロコシが新しい人生を始める。


 この詩を紹介してくれた小学校の先生は、目に見えないほどの小さい種のような子どもたちが、その先が全く見えないけれども、人生というのはそれぞれの作品を造っていく過程であることを知るように祈ってほしいと言っていました。


 イエス様の復活を信じることは、ただ2千年前の過去に行われた一つの出来事を事実として認める、という意味ではありません。復活を信じるということは、私たちは失敗しても神様は失敗することがないと信じることです。失敗しても、倒れても、大変まことにあっても、立ち上がって再び始める勇気を出しなさい、と復活の出来事は私たちに語っているのです。


 最近、本を読んで「生態遷移(ecological succession)」という言葉を初めて知りました。時間の流れと共に、ある場所の植物の群落が変わっていく現象を説明する言葉です。この本の作家は、自然災害によって荒れて疲弊した場所が復元できる過程を注意深く探りました。荒れた土地に最初はコケが生え、草原が広がり、木が見え始め、その後は想像できない奇跡のようなことが行われて、作家はこう書いています。

 「木は鳥を呼び集め、鳥は周りからラズベリー、ブルーベリー、イチゴを呼んだ。森の中は陰ができて涼しくなり、どこから飛んできたのか、いろんな種類の木々が、荒れた環境の中でも根を下ろしていた」とあります。「生態遷移」という森の奇跡が記されていたのですけれども、私はその中から命を豊かにする神様の摂理を読むことができました。自然の復活は自然にできることではありませんでした。コケや雑草、木々、鳥たちの働きがあってからのことだったのです。

 復活のイエス様に出会ってから弟子たちの人生は完全に変わりました。イエスが十字架にかけられた時、恐ろしくて逃げ出してしまった弟子たちが、いきなりイエスの復活と神の国について宣べ伝えはじめ、そのほとんどは殉教することになります。世の中のどんな脅かしも迫害も彼らの行く手を阻むことはできませんでした。この弟子たちこそが復活の証人であり、彼らの働きこそが復活の証なのです。

 イエス様の復活を記念することは、何があっても諦めず、絶望せず、いのち豊かな世界、平和な世界、健康で美しい生態系を造っていくために、今ここでしなければならないことをする、という決断です。復活を記念するということは、復活の証人になる、世界を新しくするという決断なのです。

 香蘭の皆がやさしく、明るく、温かくて他人の頼りになってほしいです。がけっ縁に立っている人、絶望の闇に閉ざされている人々の前にある大きな石を転がしてください。皆にできることです。

 疲弊した土地が森に移り変わるように、復活されたイエス様と共に歩んで、人々の悲しみを喜びに変え、明るい未来を拓いていける皆さんになるようにと祈ります。


(香蘭女学校の金大原チャプレンからのイースター・メッセージは、4月14日に捧げられた香蘭女学校でのイースター礼拝で、全校生に向けて話されました)