チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2021年05月01日掲載
大きな学びの道
「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」(ヤコブの手紙3:17)
人類の古典でありながら儒教の経典でもある「大学」には「大學之道(大学の道は)、在明明徳(明徳を明らかにするに在り)、在親民(民を親しましむるに在り)、在止於至善(至善に止まるに在り)」という言葉があります。大きな学びへの道は、天から与えられた輝かしい徳を身につけてさらに輝かせることであり、その徳をもって人々が親しみ睦み合うようにすることであり、いつも最高善の境地に踏みとどまることである、という意味で、人間の成長において最も重要なのは心の学びであるということでしょう。
ところが、心を輝かせる学びというのは本を読んで拾得できるものではありません。しきりに自分の心を天に映して磨いていかねばなりません。私たちの心は、もとは汚れなくキレイなのに時間の流れとともにあかが付くガラスやカガミと同様で、欲心や利己心、嫉妬心などで不透明になっていくものです。しかし、ガラスやカガミと違ってすぐにはキレイになりません。キレイになったと思うとまた深いところからそうでない何かが沸き上がるのです。使徒パウロが「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と嘆いたのはまさにこのためです。意志や反省だけでは新しくなれないということです。キレイな者として生まれ変わるのは神様の恵みでない限り不可能なことなのです。
イエス様が最も警戒していたのは「独り善がり(self-righteousness)」でした。「自分は正しい」という思いほど危険なことはありません。それは「他は間違っている」という判断につながるからです。完全に正しい人も完全に悪い人もいません。すべての人には善いところがあれば悪いところもあります。私たちは皆、誤謬に陥る可能性を持つ人間なのです。この事実を認めなければなりません。これを知ることが真の知恵です。使徒ヤコブは自分の限界を認めないことを「上から出たものではなく、地上のもの、悪魔から出たもの」と言い、「上から出た知恵」を強調しました。
地上の知恵は葛藤と分裂、嫉妬心を呼び起こし、結局無秩序と混乱をもたらします。これは人類が今まで経験したことであり、私たちが目撃している現実です。しかし、上からの知恵は私たちに純潔、平和、親切、温和、慈悲、善の実を結ばせるのです。
さて、イエス様の教えについてユダヤの人々は驚いてこう言いました。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう。」(ヨハネ7:15)教わらなくても分かるのが上から出る知恵の特徴です。イエス様は弟子たちにこう言われました。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。」(マルコ13:11)弟子たちに求められたのは、状況の把握や素早い判断ではなく、心を開いて天からの声、魂の声を傾聴することだったわけです。
生徒の皆さんもこのような経験をしたことがあるでしょう。複雑な状況の中で心が乱れ、まったく見当がつかない時、心を静かにして黙想すると新しい道が見える経験のことです。それについて、旧約時代の預言者イザヤは「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる」(イザヤ50;4)と記しました。それこそがまさに上から出る知恵なのです。
ここで注目すべきなのは、「疲れた人を励ます」ために、神様は私たちに知恵をお与えになるということです。万物がよみがえる季節であるこの春に、神様は大きな学びの道へと私たちを招かれています。謙虚に心を開き、天の声、魂の声、心の声に耳を傾け、自分のことばかりでなく、他人のことをも考える力を身につけましょう。
香蘭女学校チャプレン 金 大原