チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2021年06月01日掲載

「ボランティアとキリスト教教育」


 キリスト教教育の目標は教育を通じてのイエス・キリストとの人格的出会いにあると私は考えています。そしてその人格的出会いは、困難な状況に生きている人々との出会いによってもたらされることが多くあるようです。最近はボランティアという言葉は誰もが理解している言葉になりました。わが国でボランティアという言葉が一般化し、定着するきっかけになったのは、今から26年前、1995年に起きた阪神淡路大震災の時からかと思います。この大きな震災を契機に多くの人々がボランティアを経験することになりました。今では災害が起こるとすぐにボランティアが駆け付けるというほど言葉の理解だけでなく参加するということも一般化しています。

 ボランティアという言葉はラテン語の意志を表す「ボロス」という言葉が語源とのことで、文字通り自発的意志による行動で、現実社会の中で援助を必要とする人々との支援を通じての出会いの活動です。英国などではボランティアを行うということは高い教養の証とも考えられ、例えば故ダイアナ妃の行った様々なボランティア活動などもそういう脈絡から理解することができます。

 私自身がボランティアという言葉を身近に知るようになったのは50年ほど前、神学生として群馬県の老人ホームで臨床牧会訓練を経験したときのことでした。特別養護老人ホームで、援助がなければ生活ができないたくさんの老人たちと出会い、その方々の生きる現実にどのように継続的に関わるかを真剣に考えた私は神学校をやめて老人と共に生きる道を選び取ろうかと悩んだのです。その時、指導に当たってくださった先生が、ボランティアとして継続的に関わることができるという道を示してくれたのでした。以後、神学生仲間とのボランティア活動を始め後にVAC「人間の学校」という名で日本全国の大学生約50名と老人ホームを中心としたボランティア活動を行うようになりました。この活動はその後20年以上継続し、1000名を超える参加者の中から牧師、教師、医師、看護師、社会福祉に携わる人など多くの青年が育っていきました。「人間の学校」という名が示すように、このボランティア活動は奉仕活動を通じて老人たちとの出会いの中で人間として生きることの意味を学び、「共に生きる」人間に成長する学校なのだという理解がありました。そこには知識、学歴重視の学校教育の現実に対する一定の批判があり、このボランティア活動を通じての人間理解の中でこそ真の学びがあるのだという今から思うと背伸びした理念がありました。老人ホームが学校であり、入居されているご老人が生きた教科書なのだとの思いが強くありました。学ぶということの意味は知識でも学歴でもなく、学ぶのは何のためか、学んだことによって自分がどう変わり、どのように他者と共に生きるのかということが大事なことなのだという認識がありました。社会の生な現実から学ぶ、ボランティア活動は本来、自己変革をもたらす学習(教育)ボランティアでなければならないとの確信がありました。良いことをする、人助けをするということの価値をもちろん否定することではありませんが、私の目指したボランティア活動はそういう奉仕活動にとどまらず、時には施設の迷惑になる事があったとしても施設もまた社会的な教育的使命を負っているという認識に立って青年たちの教育に力を貸していただき、青年たちの生きた学びを実現することが必要なのだと考えたのです。教育が学ぶことによって人間が変わることを目指す営みであるならば、学校教育、とりわけキリスト教学校における教育にとってこのボランティア活動の持つ意義は大変大きいと言うことができます。香蘭女学校ではこのような意味で、様々なボランティア活動を今日まで実践してきました。これからも生きた現実から学び、出会う人への愛の心を育むことで、イエス・キリストとの人格的出会いを目ざす学校でありたいと願っています。


香蘭女学校チャプレン  杉山 修一