チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2021年07月01日掲載
あなたの目は澄んでいますか
「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」(ルカによる福音書11:34-35)
同じ対象でも見る人によって全く違って見えるものです。人たちが一人の女性を捕まえてイエスの前に連れてきました。彼らにはこの女性が罪人に見えたからです。しかし、イエスはこの女性の心の中にある空虚感を見ました。これは大きな違いです。当時の律法にしたがって罪人に石を投げることは当たり前のことでしたが、この人が今まで受けてきた心の傷と涙に注目すると誰も彼女に石を投げることはできませんでした。目が、眼差しが重要であるわけです。平和を望むなら、世を見る私たちの目にあるレンズを入れ替えるべきです。利己心と貪欲と否定的な思い、濁った目で世を見るかぎり、決して美しい世を作ることはできません。
それで、イエス様は私たちに「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と厳しく命じられているのです。ものを識別する器官である目は外に光があって見ることができます。いくら視力が良くても真っ暗なところでは目の見えない人に等しいです。ところが、イエス様は外の光ではなく私たちの中にある光についておっしゃっています。この光は何でしょうか。すべての人の心の中にやどっている光、すなわち神様を見知る霊的な光ではないでしょうか。これは変わることのない光です。私たちが真理を知るというのは、まさにこの光を見ることです。この光を私たちは「道、真理、命」と呼ぶのですが、聖ヨハネはこの光がまさにイエス様なのだと言われました。
「目が澄んでいる」というのは、私たちの中にあるその根源的な光が何かによって遮られていないという意味です。実は、私たちの中におられる神様の現存に気づかせてくれる、その永遠の光を遮るものは多いです。欲心、経験、知識、憂いなどによって私たちの目が覆われると、神様を見ることができず、そのために物事もありのままを見ることができなくなるのです。ちゃんと見るためには、その遮蔽物をはらい落とすべきです。その遮蔽物は何で拭き取れるでしょうか。
一つは、神様のみ言葉です。詩編の記者はこう詠いました。「主の律法は完全で魂を生き返らせ、主の定めは真実で無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで心に喜びを与え、主の戒めは淸らかで目に光を与える。」(詩編19:8-9)神様のみ言葉こそが私たちの魂の汚れを洗い落とせる洗剤なのです。聖アウグスティヌスは聖書を読んで神様に近づく過程をこう記しました。「病気で弱くなった私の魂の視力は、痛みと悲しみを伴ったあなたの癒しの薬のおかげでますます明るくなっていきました。」(告白、第7巻8章)
もう一つの洗剤は、隣の人々のために流す涙です。感情的な涙だけでなく、誰かの痛み、苦しみ、悲しみに共感し、分かち合い、問題を解決するために汗かく過程までが含まれた涙です。これより強い洗剤はありません。隣人のために流す涙は、私たちの中にある闇を拭き落として神様を仰ぎ見るようにするのです。
私たちのまなざしはどうでしょうか。やさしくて暖かくて肯定的でしょうか。それとも冷たくて否定的でしょうか。
香蘭女学校チャプレン 金 大原