チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2021年08月01日掲載
聖書に見る親子の自立
旧約聖書のサムエル記に、後年イスラエルの宗教的、政治的指導者となるサムエルの幼い頃の話が記されています。母のハンナは長きにわたって子が与えられるように祈り、ようやく与えられた子がサムエルです。しかしハンナは乳離れして間もなくその幼いサムエルを祭司エリに託すことになります。やっとのことで与えられた可愛いわが子を手放すことは母にとってつらいことだったに違いありません。ハンナは以後もサムエルのことを想いつづけサムエルの上着を作り、届けていたようですから、母親としての深い愛を感じます。子が与えられたら神に捧げますと約束したとはいえ、ハンナの思いは複雑だったでしょう。子どもは神のものであるという認識と共に母としての大きな決断が求められたのです。
私たちは自分という存在が誰のものだと考えているでしょうか。自分は自分のものに決まっていると思われる方が多いと思います。中には、愛情の深いご夫婦があって、私は夫のものですとか私は妻のものですという方も稀におられるかもしれません。少なくとも恋人同士なら、私はあなたのものなどと錯覚している人もあるかもしれません。
それでは子どもは誰のものでしょうか。どの親もそうだと思いますが子どもは自分たちのもの、自分たちに与えられた大切なものだと考えるのが普通です。そして期待と愛情からその子どもを自分の願うように、自分の望むように育てようとするものです。ところがそういう自分たちのもの、自分の望むように育てたいという親の思いが時に子ども自立、また親の自立を妨げてしまう事もあるようです。昔から日本では子は天からの授かりものといったようですが、授かったということは親のものとして与えられた、親の所有物ということではありません。子どもという存在はキリスト教的に言えば神さまによって託されたもので、一人の子どもの存在には神さまの願い、期待、そして計画があるのです。そのために神さまは親に子供を委ね、一時預けておられるのだということです。
私が若いころ勤務していた教会に重度の身体障害を持ったお嬢さんがいました。ご両親は愛情をもって苦労しながら育てておられましたが、ある時お母様が私にこう言いました。「先生、私たちは重い障害を持ったこの子は神さまが私たちを選んで託されたんだと思っています。お前たちならこの子をちゃんと育てられるだろうと任せていただいたと思っているのです」。このお母様の言葉に私は驚き、神が敢えて自分たちを選んでその子を預けられたと受け止めている信仰に深く感じ入ったものでした。さらに驚いたのはそれから何年かたって、今度は重い障害を持つこのお嬢さんが、電動の車椅子を手に入れて自由に移動できるようになったある日、私に「先生、私は自立をするために父母と別れて施設で暮らすことを決めたの」と言って父母のもとを離れていったことでした。彼女は施設の中で周囲の人に支援を受けなければ生活することは叶わないのですが父母と離れて暮らすことの中に自分の精神的自立と両親の自立を大事なこととして考えたのでした。
ハンナがサムエルを手放すことで自らも自立していったように親にとっての子離れ、子どもにとっての親離れということは双方にとって大切なことであることを示しているように思えます。
香蘭女学校チャプレン 杉山 修一