チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2016年12月01日掲載

聖書には、イエス様のお生まれになった日付が記録されていません。新約聖書の中、クリスマスの出来事が描かれています二つの福音書(マタイによる福音書とルカによる福音書)が書かれたのが50~60年代と言われていますから、1900年以上にわたって今日に至るまで、一向にイエス様の誕生日は加筆さえされていません。

私たちは皆、誕生日があり、公的記録にも記載され、その日を人々に祝ってもらいもします。その日が分からなければ、祝いようもありません。ちなみに、クリスマスの日付が決まったのは4世紀、正式には325年のニケヤの公会議で決定され、 教皇ユリウス1世が「イエスの誕生日は十二月二十五日である」と布告したことによります。ちなみに、クリスマスが12月25日に祝われた最も古い記録では、354年だそうです。

 しかし、いずれにしましても、日付は後になってから教会が定めたものであり、聖書自身は全く触れていません。それは、聖書を手掛けた人たちが最も伝えたかったのはイエス様の誕生の日付以上に、その「お生まれになったことが如何なることなのか?」「私たちに、どういうメッセージを投げ掛けているのか?」ということのようです。

 しばしば身の回りでも、こういう言葉を耳にします。「それは、誰が言ったの?」と。この質問自体が悪いとは思えません、しかし、その後に「誰々が言ったのなら仕方ない、それに従おう」、あるいは反対に「誰々が言ったのなら気にくわない、だったら反対しよう」と。ある意味、未熟な発想とも言えましょう。何故なら、単なる感情的反応であり、「そこで何が起こっているのか?」「何が大事なポイントであるのか?」という本質への視点が欠け落ちているからです。似たように、クリスマスを巡りましても、「何月何日何時何分」だけにしか関心がなければ、出来事の大事な意味を飛ばし、見失うことになってしまうでしょう。クリスマスは、「命の出来事」から始まりました。いきなりイエスという名のスーパーマンが天から舞い降りて来たわけではありません。

昨今、俗悪なテレビ番組や雑誌の氾濫、歪んだ競争社会や原理が引き起こす歪み異常なまでの物質主義や拝金主義が蔓延る中、キリスト教が一貫して大事にし続けているのは「命の肯定」です。しかも、「その命とは、条件付けで愛されたり、されなかったり、大事にされたり、されなかったりということがあってはならないのだ!」ということを限りなく大事にしています。授かりものとしての命であるという原点への立ち返りと、本来の命の在り方を取り戻すというテーマ抜きに、クリスマスは成り立ち得ません。クリスマスは昔の出来事ではなく、今の命を見つめることへの招きと言えましょう。