チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2022年05月01日掲載
愛の木に水をやろう
事務室に鉢植えのローズマリーを置いたことがあります。毎朝、事務室に入ると、最初にローズマリーをなでてやりました。すると、ローズマリーは自分の中にある清涼な香りを放ってくれます。鼻を近づけてその香りを深く吸い込むと、頭の中まですがすがしくなるようでした。たまにその葉っぱの色が変わっていないか確認し、しおれていれば、すぐ水をやりました。水をやりながら、水を飲んでその水を爽快な香りに変える才能を羨んだこともあります。
「愛」というのは草木のようなものです。水をやり、丹精をこめないと、成長せず、花を咲かすことができないものです。世話をしないと花を見ることができません。校庭のいろいろなお花は、世話をする人がいるから、毎年あのようにきれいにお花を咲かせているわけです。
わたしたちは愛についてよく話します。イエス様も「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書13:34)と言われました。ところが、愛は自然にできることではありません。愛することができる人になるためには努力が必要です。なぜかというと、わたしたちの中には、愛の木だけが育っているのではなく、憎しみや恨みの木も一緒に育っているからです。憎しみや恨みの木に比べると、愛の木は弱すぎます。わたしたちは腹立ち、不平を言い、陰口をたたくことは上手なのに、愛情をもって見つめ、愛のある言葉を話し、愛の心をもって人に接することには未熟です。だから、わたしたちの中にある愛の木はしおれやすいです。関心を寄せないと愛の力が弱まるということです。
憎しみや恨みがもたらす否定的な結果を、わたしたちはよく知っています。誰かを憎み恨むことで世界が美しくなるとしたら、世界はすでに良いところになっているはずです。誰かへの憎悪をふくらませることで幸せるなるとしたら、わたしたちはみな幸せになっているでしょう。しかし、幸せとは、憎しみと恨みを追い出し、心の中に愛が働くときに感じるものであることを、わたしたちは知っています。イエス様は憎しみの世界に愛を引き込まれました。イエスを信じることは愛の人になるという意味でもあります。キリスト教の信仰というのは、互いを深く理解し、愛することのできる原動力だからです。
わたしたちは香蘭女学校という愛の木を育てる者でもあります。自分に何ができるかとは思わないでください。わたしたちはみな他人と分かち合える大事な賜物をもってここに来ているわけです。わたしたちの言葉が、身ぶり手ぶりが愛からはじまる時、それは愛の木を育てる良い滋養分になるでしょう。
春には大木にも小さく弱々しい新芽が出てきます。このような場面を見るたびに命の奇跡を目撃しているような気がして、胸にじいんと響きます。その新芽は母なる木の養分を摂取して芽生え、母なる木はその芽のおかげで成長します。わたしたち香蘭女学校が、またわたしたちの社会が木のようになってほしいです。教職員と生徒が、先輩と後輩の生徒同士が、大人と子どもが調和をなし、一段となり、愛の中で互いに協力しあう美しい姿を夢見てみます。
香蘭女学校チャプレン 金 大原