チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2022年12月01日掲載
「救い主を待ち望む」
今年もクリスマスが近づいてまいりました。教会の暦では降臨節という救い主が来られる時を準備して待ち望む時が始まりました。待降節とも言って文字通り救い主がこの世に降臨される時をひたすら待ち望んで準備する期間のことです。「愛とは待つことだ」といった方がありました。ひたすら耐えて待つ、刑務所の教誨師をしておられたその方は、重い罪を犯した夫の出所をひたすら待ち続ける妻の姿に心を動かされ、待ち続けて生きる姿の中に愛を見たということでした。聖書の民は長い歴史の中で絶えず大国の支配と圧政に苦しみ、悲惨の中で救いを待ち望む民族となりました。苦難と悲惨の中にある人間に取ってそこからの解放、救いは何よりも待ち焦がれることであったはずです。
聖書の民だけでなく、現代に生きる私たちにとっても、苦難、そして悲惨によって崩れ落ちそうになる、絶望しそうになる現実にしばしば遭遇します。11年の時を経ても故郷に戻ることのできない東日本大震災の被災者、ロシアの侵攻によって愛する者の命を失い、祖国を離れなければならないウクライナの人々、いつ終わるともしれない内戦に苦しみ周辺国に逃れて生きるシリアの難民、その他個人のレベルでも苦しみ、悲しみの中にいる多くの人々がおられます。
いつでしたかクリスマスが近づく冬の日、病院に行くと集中治療室の前に女性が一人しゃがみこんで泣きながら誰かに電話していました。内容はわかりませんが、ただならぬ様子で泣きながら電話をしているその方の姿からおよその想像はできました。おそらく愛する者の厳しい状況を誰かに伝えていたのでしょう。見ず知らずの人であっても、この方の苦しみ、悲しみが私にも覆いかぶさってくるようでした。この方のところにも救いがもたらされるようにと祈らざるを得ませんでした。苦しみ悲しみの中でどうしてよいかわからない、そういう人々のところに救いはやってくるのだと聖書は伝えます。聖書には初めのクリスマスのことが記されています。この最初のクリスマスの出来事を取り巻く人々もみな一様に苦難を生きる人々でした。美しい絵画に受胎告知として描かれる、聖霊によって身ごもった少女マリア。現実には未婚のまま子どもを身ごもるとなどということが当時どれほどの苦しみであったか。そしてその事実を苦悩の内に受け入れなければ、マリアを助けることができなかった悩みの中に苦しむ、許婚者のヨセフ。二人はやがてローマ帝国に人頭税を徴収されるために故郷に旅をして、宿もみつけられず、結果として客間の外に追いやられ、棺桶を象徴する飼い葉桶に寝かされた赤子のイエス。そこにやってきたのは日雇い労働者のように不安定な身分と社会的に差別されながら生きていた貧しい羊飼いたちであり、賢人とは名ばかりの魔術を行うとして忌み嫌われていた3人の占星術の博士たち。救い主の誕生を取り囲む誰を取り上げてもこの世的な意味での幸せからは程遠い人たちがクリスマスの主人公なのだということがわかります。
この聖書が表現する「救い主の誕生」を待っていた人々のことを私たちはクリスマスを祝う時に決して忘れてはいけないことだと思うのです。東日本大震災やウクライナ、そしてシリアの内戦のことを持ち出すまでもなく、私たちの世界の現実は実に多くの苦難と悲惨に満ち溢れています。クリスマスを迎えようとする私たちは、自分一人の安価な幸せを求めるクリスマスではなく、世界の、そして身近にいる苦難と悲惨にあえぐ人々とともに、希望そのものである「救い主」を待ち望みながらクリスマスを過ごしていきましょう。実にそういう苦難の中にある人々に解放と救いの喜びを告げるために救い主が生まれた、それがクリスマスなのですから。
香蘭女学校チャプレン 杉山 修一