チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2023年04月01日掲載
「復活という希望」
復活祭(イースター)は年によって日程が変わります。春分の日(3月21日)のあとに来る最初の満月の次の日曜日とされています。早い年と遅い年では35日間も開きがあります。そして今年は4月9日が復活祭となります。キリスト教にとって最も重要なお祭りはクリスマスではなく復活祭(イースター)です。なぜかというとイエス・キリストの復活こそキリスト教が始まった根拠であり、復活がなければキリスト教、そしてキリスト教の信仰、教会も誕生しなかったのです。もちろんキリスト教学校である香蘭女学校も存在しなかったのです。
キリスト教は復活の宗教ということができます。パウロというキリスト教を世界に広めた使徒はコリントの信徒に送った手紙の中でこう書いています。「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」。要するに復活こそがキリスト教の中心で、それがなくなればキリスト教を伝えることも、神に対する信仰も意味がないというわけです。しかし、復活なんて科学的にもあり得ないし、理性的にも理解できるものではない、と考える人が殆どでしょう。実際イエスさまの時代にも大多数の人はそう考えていたようです。復活は死者がゾンビのように生き返るということとは違います。そうではなく、死んだら全て終わり、というように死がすべてのことの終わりで、死の前には人間は無力なのだと考える考え方にNOを突きつけるのが復活という出来事なのです。多くの人がイエスさまの復活を信じない中、復活を信じた人はみな一様にイエスさまとの出会いによって自分の人生の意味を見出した人でした。一番初めに復活の証人になった人はマグダラのマリアという女性です。自分の辛く悲しい人生を、人々から罪を犯した人間だと後ろ指をさされてされながら生きて来た人です。あるとき、彼女はイエスさまに自分の罪を赦していただき、それまでの辛く悲しい、意味がないように思える人生から、ひとりの人間として、かけがえのない存在として生きることの意味をイエスさまに教えられ、それまでの生き方と決別して、新しく生きること、新たないのちの復活ともいうべき経験をしました。それですから彼女にとって自分に新しい命を与えてくださったイエスさまが十字架にかけられて死んでしまったということは実に受け入れられないほどの悲しみ、苦しみだったのです。断ち切れない思いを胸に、亡骸を引き取ろうとイエスさまが葬られている墓に出向くと、そこにはイエスさまの亡骸がないことに気づきます。彼女はだれかがイエスさまの亡骸を持っていってしまったと思い、急いでペロたちにそのことを伝えます。あらためて墓に戻ったときには既に弟子たちもいませんでした。マリアは悲しみにくれて泣き崩れます。白い衣を着た天使が何故泣いているかと聞くと、彼女は自分を人間として愛し、立ち上がらせてくれた方が取り去られてしまったことを伝えて振り返ります。すると、そこにイエスさまが立っていました。しかし泣いている彼女にはイエスさまとは気づけず、墓守りだと思います。イエスさまは「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを探しているのか。」とたずねます。マリアは墓守に「あなたがあのかたを運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えて下さい。わたしが、あの方を引き取ります。」と心から伝えると、イエスさまは「マリア」と彼女の名前を呼びます。自分の名前を懐かしい声で呼ばれた時、マリアは初めてそれが復活のイエスさまであることに気づくのです。
生きることに悩み、苦しみ、人から拒絶されていた自分に目を注ぎ、これまでの罪を赦し、人間としての尊厳を与え、命がけで愛してくださったイエスさまが、今はっきりと自分の前に立ち、自分の名前を読んでくださっている。このとき、初めてマリアはイエスさまが復活されたことを理解するのです。復活は科学でも理性でもなく、愛と信頼の関係の中でこそ事実として理解されるのです。神によってわたしたち人間はだれもがマリアのように、徹底して愛されています。そのことを信じるとき、自分の命を捨ててわたしたちを愛してくださったイエスさまが今、復活してわたしたちとともにいてくださることに気づくのです。そして私たちはもう一度立ち上がって生きる勇気と希望を与えられるのです。ここにキリスト教の真髄があります。
香蘭女学校チャプレン 杉山 修一