チャプレンメッセージMessage from the Chaplain
2017年02月01日掲載
リオデジャネイロで開催されたオリンピックから早いもので、半年が経とうとしています。その後も、世界レベル、日本国内における競技で、多くの記録が塗り替えられたりしている様子がマスコミを通して伝えられていることには、励まされてもいます。
毎年、夏にはテニス部の合宿に数日だけですが参加し、生徒たちの頑張っている様子、落ち込んでいる様子等々、様々な姿を目にします。全員一律にという訳にはいきませんが、わずか数日の間にもスキルアップする生徒、なかなか思うままにいかず伸び悩んでいる生徒、しかしいずれもが必死に頑張っている姿には感動を覚えます。
物事には得手不得手とありますし、皆が皆プロになれる分けでもありません。しかし、そこにはしばしば教え方、教わり方というものも大きく関わっているようにも思えます。私自身、テニスの専門家でも、況してやプロでもありませんけれども、思うところはあります。
「もっと足を動かせ!」「もっとラケットを早く引け!」「もっとしっかりボールを見ろ!」と、自らも何度も言われてきたことですが、それが直ぐに出来るようになれば苦労は要りません。幾ら励ましているつもりでもあっても、肝心の相手に叱責としてしか響かなければ、却って緊張感を与えるだけでしょう。
むしろ、なぜ上手くいかなかったか、その理由を一緒に考えるという大切なプロセスを経て、さらにこういうアドバイスの仕方もあるはずです。それは、「あと一歩頑張れば追いつけたぞ!」「今のボールは生きていたぞ!」「体の軸がぶれていなかったから、今のボールは体重がのっていたぞ!」等々、いいところに目を付け、褒めることで、技術が上向きになるだけではなしに、余分な緊張もほぐされていくことでしょう。
テニスに限らず、どうしていいか分からずにいるところへ、やれ「下手だ」の、「何で早く走れないんだ!」と、唯厳しく言っているだけでは、相手には励ましとしては響き難いことでしょうし、加えて余分な緊張をも強いることになるでしょう。「もっと足を動かせ」「もっと速く走れ」も、「もう一歩だった」「あと半歩になったぞ」も、差ほど掛け離れた意味ではありません。否定と肯定は表裏一体でもあるようです。でも、その先に生み出される何かは、正反対にもなり得ましょう。
イエス様は、物わかりの悪かった弟子たちを見放すこと無く、優しく、厳しく育て続けられました。そして、その根底に置かれていた心とは「無い物探しの心」ではなしに、「有るもの探しの心」でした。もっとも、無いものを探し続けても、無いものは無いままです。有るものを探し、一緒に喜ぶ、そこには人を育て、伸ばす極意と言えるものが潜んでいたことでしょう。教育は無いもの探しにエネルギーを費やすことではないはずです。