チャプレンメッセージMessage from the Chaplain

2017年03月01日掲載

大学入試の真最中だからかも知れませんが、「大学は知性の練磨の道場であって、学士号や免許状の取得の場に終わってしまってはいけない。大学とは知識が知恵に変えられて新しい人を創り出すところでなければならない」という、キリスト教界を代表する19世紀の方で、英国聖公会からカトリック教会へ移られ枢機卿になられ、オックスフォード運動にも貢献されたジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿の言葉が思い浮かびました。

あわせて、以前からお世話になっている方で、専門を「ホスピタリティー論」「言語表現」となさる大学の先生が次のようなことを言っておわれたのも想い出しました。「大学は、受身ではなく自らが積極的に学ぶところであり、真の知性を磨く所。知性とは知るだけではなく、身につけ、言動に自然に表れてこそ初めて本物の知性になる。真に知性豊かな人間は、謙虚にして誇り高く、黙っていても光り輝いている」と。

その先生と話す機会がありました折、嬉しそうに言われた出来事を思い出します。所謂、世間で「チャラチャラした子」と言われるような大学一年生が、授業の後机に残った消しゴムの滓を床に払い落とすのではなしに、キチンと纏めでゴミ箱に捨てたのを見て、なんと想像力の長けた学生だと感じたという話でした。そして、更に言われました。「如何に身なり、格好で、その人を決め付けがちであるかを反省させられる」と。

思いますに、「想像力」と「創造力」は人間に授けられている素晴らしい賜物の一つ一つであると。しかし、一方、本来素晴らしい何かを生み出すことに繋がる力であるはずの「想像力」が如何に歪んだ形で使われているケースが多いことには悲しさのみならず、勿体なさをも感じさせられます。

人との関わりにおいても、一方的な分析、究明、思い込みだけを基準に「仲間」「敵」と決め付けてみたり、さらにはご機嫌取り、点数稼ぎ、誠意の伴わないお世辞に心を砕くことに時間と心を費やしてみたりということも無いわけではありません。文字通り「心を砕く」とは勿体なく、残念なことです。そして、そのようなことの中では、健やかな「想像力」も「創造力」も育ち難いことでしょうし、冒頭に記しました豊かな智恵や知性からも掛け離れていくことでしょう。なぜなら、そこにあるのは、広がりや豊かさにつながり、何かを創り出す「想像力」「創造力」はなく、反対に何かを壊す力だけだからです。そして、その壊す力の一つに「決め付け」があげられましょう。「想像力」も「創造力」も、「決め付け能力」ではありません。決め付けは可能性を封じる力はあっても、広がりや豊かさや、創り出す力とは程遠いものです。

加えて、しばしば「決め付け」は、こちらの安定材にしかならないことも多々あります。決め付けないことで未来が開かれ、可能性も開花するはずです。更には「決め付けた時、教育は終わる!」とは、過言ではないでしょう。