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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(6)

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。

これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

 

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第3回です。

 

 

《香蘭女学校の歴史 3 学校設置願の提出・認可から開校まで》

 

英国国教会(聖公会)は、前述の通りC・M・S(Church Missionary Society、教会伝道協会あるいは宣教協会)とS・P・G(  The Society for the propagation of the Gospel、福音宣布協会あるいは福音伝播協会)の2つの伝道協会が別々に日本伝道を始めました。1886年に第2代日本主教として派遣されたエドワード・ビカステス主教は、男子の伝道団の聖アンデレ伝道団に対して、女子の聖ヒルダ伝道団(聖ヒルダミッション)を創設し、その活動の重点を次の4つに置きました。すなわち、1. 伝道活動、2. 日本婦人伝道師の養成、3. 女子教育、4. 診療所開設、の4つです。

このうち伝道活動は、ミッションの本部を中心に各教会と連携をしながら進められました。日本婦人伝道師の養成に関しては、後に聖ヒルダ女子神学校を創設しました。診療所開設に関しては、1891年に香蘭女学校校内にディスペンサリとして聖慈堂病院を創設しました。そして、女子教育の機関として作られたのが香蘭女学校ということになります。

1887年にビカステス主教(37歳)は、その右腕として絶大な信頼を置いていた今井壽道(24歳)の名前で1887年10月22日、「私立香蘭女学校設置願」を東京府へ提出しました。「設置願」の中の「設置ノ目的」項には、「彝倫(いりん)道徳」から始まり「英語学 和漢学 算術 幾何 代数」と続き、さらに「音楽」「裁縫」「礼儀」「毛糸細工」などが教授する科目として記されており、まさにリベラルアーツの学校として創設されたことがよくわかります。翌11月、高崎五六東京府知事の名前で設立は認可されることになります。

香蘭女学校の創立には、前述の英国S・P・Gから派遣されたアレクサンダー・クロフト・ショー師(41歳)や、同じS・P・Gのヴェン・アーマイン・フランシス・キング師(33歳)、さらに日本人では吉澤直江師(23歳)(日本聖公会三光教会の初代牧師)らが多大な協力をしてくださいました。さらに、福澤諭吉とその門下生も設立に尽力したと言われています。

そして翌1888年春の開校をめざして準備が始まります。1888年3月号の「女学雑誌」には香蘭女学校の生徒募集広告が掲載されています。「本校は女子の教育に老練なる英国婦人及本邦人各数名を聘し完全なる女学を授くる所なり」という書き出しで掲載された広告には、「本校は敢えて生徒の衆多なるを好まず欧州教育家の輿論に従い少数の人員を限り親切に教授すべし」という言葉が見られます。一人一人を大切にして女子の教育を丁寧にするという香蘭女学校の伝統は、既に開校前から謳われていたものであったのです。

開校に向けては、当然のことながら教職員が集められました。校長に前出の今井壽道、新潟で教師をしていた長橋政太郎が開校後に呼び寄せられ1888年9月に教頭として着任します。さらに英国S・P・Gから派遣された女性宣教師たちが、香蘭女学校の教師として次々と着任します。

ミス ブラックストン ヒックス(40歳)はその一人で、1887年10月22日に東京府に提出された履歴書が現在も残されています。ミス ブラックストン ヒックスはロンドンでも一二を争う名医ブラックストン ヒックス氏の令嬢で、1887年12月に来日し、香蘭女学校で熱心に教育にあたりましたが、病を得て1890年に帰国します。

シスター マーガレット(年齢不詳)も同様に開校以来香蘭女学校で教授し、重要な役職に就いていたようですが、やはり1890年に帰国します。

ミス ミルドレッド スノーデン(年齢不詳)も1888年から香蘭女学校で教授し、帰国する1908年まで20年間にわたって生徒たちのために働きました。

そして最後に、香蘭女学校創立期最大の功労者、ミス エリザベス ベシー ソントン(35歳)を詳しく紹介しなければなりません。ミス ソントンは1887年12月に来日し、畳町聖十字教会に属し、聖ヒルダ伝道団(聖ヒルダミッション)の女性宣教師の責任者でした。ビカステス主教のもとで幅広く活動し、主教の信頼もあつく、多大な功績を残しました。香蘭女学校では実質的には校長と言ってもよい働きをしていました。遠方からの入学者のために早くから設置した寄宿舎でも長年その館長を務め、1902年には香蘭女学校理事にも就任します。聖ヒルダミッションでの活動としては、前述の聖ヒルダ養老院を開設したのもこのミス ソントンです。また、1891年10月に現在の愛知県・岐阜県を中心に起こった濃尾地震による孤児たちを受け入れる施設として聖ヒルダミッションでは香蘭女学校附属の清蕙幼女学校という学校を創立しました。その中心になったのもミス ソントンです。さらに、香蘭女学校と同じ敷地にあった聖ヒルダ女子神学部でも、ミス ソントンは中心的な役割を果たしています。1904年11月13日、ミス ソントンは病を得てこの日本の地で逝去しました。お墓は青山墓地にあります。享年52歳であったと思われます。ミス ソントンの英語や唱歌の授業は大変厳しく、答えられないと教室から出されることもあったというような逸話も伝えられています。

 

(写真は左より、長橋政太郎、ミス スノーデン、ミス ソントン)

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