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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(10)

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第6回です。

《香蘭女学校の歴史 6 創立当初の教育を担った日本人女性教師たち》

創立当初、東京でも遠方の生徒や、北海道・九州、あるいは小笠原出身の生徒など、自宅から通学できない生徒たちがいたため、寄宿舎を設置しました。麻布永坂校舎の2階が寄宿舎となっていました。当時の寄宿舎規則によると、起床は午前6時、朝食は午前7時、昼食は正午12時、夕食は午後6時、就寝は午後9時、そして9時30分には灯火を消すことと定められ、また午後3時30分から5時までが運動時間と決められていました。寄宿舎はとても家族的で、ミス エリザベス・ベシー・ソントン以下歴代の館長は生徒にとってはまさに慈母の如くであったといいます。また、初代寄宿舎舎監としては生地新子先生を招聘しました。生地先生は英語に堪能で、熱心な聖公会の信徒でした。このほか舎監には山口直子先生などがいました。また、第2回卒業生(1893年卒業)の丹下得喜先生も寄宿舎の舎監でしたが、お作法の授業(科目名は諸礼)も受け持っていました。
英語や聖書を受け持っていた岡本房先生は、元々は漁師の娘だったようですが、孤児となり8歳の時に聖アンデレ教会で受洗。S・P・Gからの最初の女性宣教師ミス アリス・エレノア・ホアに保護され長年同居していました。1900年頃に香蘭の教師となり英語・音楽・聖書を教え、一方キリスト教の伝道師としての働きも熱心にしていました。1924年に、既に白金三光町に移転していた香蘭女学校の敷地内にあった三光教会で女性伝道師として働いていたという記事が残されており、また同じ1924年には三光教会婦人会の会長に推薦されて選ばれています。香蘭女学校での岡本先生の様子について、21回生の豊間喜恵子さんは「よく岡本先生に導かれて校外へ参りました。ある時は上野の博覧会へ、ある時は蒲田の菖蒲園へ……」と語っており、少人数のクラスを引き連れて校外見学をしばしば行っていたようです。後に慶應義塾塾長小泉信三夫人となった小泉とみ(旧姓阿部)さん(19回生)は「聖書は岡本先生で、モーセの時にお泣きになるの。」と、また34回生の秦ユリさんは「三光教会があり、日曜日になると、寮生は皆出席することになっておりました。オーガニストは岡本房子先生という修女志願の黒い服を召したお方で、先生のオルガンは本当にすばらしいと思いました。この先生は永坂時代からあった旧聖ヒルダ女子神学校の先生でもあられた方です。」と語っています。岡本房先生の人となりがうかがえます。香蘭女学校では、寄宿舎が中心となって時折「夜会」が催されていました。慶應義塾大学創立者福澤諭吉のお孫さんである福澤宏(八重)さん(19回生)は、「夜会がありました。此れが誠に楽しく、皆々おしゃれをしてよそ行きの袴にゆうぜんの袖の長いきものに胸高に袴の紐を結び、黒いピカピカみがいた靴をはき、髪にはリボンをかざって、夜七時頃出かけます。広々と片付けた室でミス ニューマン、ミス ネビル、岡本先生方と先ず色々のゲームをいたしましたが、ミュージクルチエアー等おもしろく笑いました、数々のゲーム後、最後にダンスをいたしました。品のよい美しいダンスで皆々其の場でおぼえます。」
と語っており、このような楽しい場にも岡本房先生が積極的に参加されていたことがうかがえます。岡本先生は、強い近眼だったそうですが、英語はペラペラ、1903年に始まったバザーの前には、英語の本を見ながら編み物を生徒に教えていたそうです。1928年香蘭女学校退職、同敷地内のエピファニー修道院に入り病人や孤独な方々を慰問する生活に入られました。1931年3月14日、逝去。当時の校長(第3代)の富田俊先生は、「十四日岡本房子先生の御訃音に接しました。岡本先生は、がっしりとした、健康な御方で、伝道に精進し、奉仕の御生涯をつくされ、その御隙には、エピフアニー・ホーム、の御庭の御花を持つては、病人や、孤独な者を、慰問して居られました。亡き母に、よく花を下さいましたのに、今は凡べて、帰らぬ夢となりました。」日本に初めて女性伝道師としてはるばる英国からやってきたミス ホア。ちょうどその頃、親を亡くして天涯孤独の孤児だった一人の少女が、このミス ホアと一緒に生活をしながらその教えを全身で受けとめて、決して目立つようなことはせずに常に周囲に優しい心遣いをしながら、キリスト教の伝道と教育に、奉仕ひとすじの生涯を捧げました。岡本房。私たちが覚えておきたい香蘭女学校の功労者の一人です。
さて、英語を教えた先生には、ミス オザキと生徒たちから呼ばれていた先生もいました。この先生は、英子セオドラ尾崎。後の、「憲政の神様」尾崎行雄(咢堂)夫人です。セオドラ尾崎先生の父親は、男爵の尾崎三良で、ロンドン留学中に結婚した教師ウイリアム・モリソンの娘バサイアとの間に生まれた娘のうちの一人です。1887年に16歳で来日。アレクサンダー・クロフト・ショー夫妻に引き取られ、香蘭女学校の教員になりました。その後、駐日英国公使夫人の個人秘書、1895年に渡欧しイタリア・ロンドンに滞在、1899年に再来日し慶應義塾幼稚舎の英語教師、その後物語などを執筆、社交界でも人気を集め、そして同姓ゆえの郵便配達の誤配がきっかけで尾崎行雄と親しくなり、1905年に結婚、1932年に滞在中のロンドンで逝去。
このほか、堀貞子先生や、後の第3代校長である富田俊先生も、創立後割合早い時期から白金三光町時代に至るまで、長い間香蘭女学校で和文学(今の国語)を教えていました。

(写真は左上より、生地新子先生、山口直子先生、丹下得喜先生、岡本房先生、英子セオドラ尾崎先生、堀貞子先生)

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