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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(11)
1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。
来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第7回です。
《香蘭女学校の歴史 7 草創期の香蘭女学校は組織作りの日々》
1888年の創立時の香蘭女学校は、修業年限は4年、入学資格は「年齢13歳以上 小学校6年の課程を卒りたる者、又は之に相当する学力を有する者」とされました。最初の生徒数は7名。
その後1889年には、女子小学校設立願を提出し、受理されたため1890年に香蘭女子小学校が開校しました。小学生の募集広告には「英和漢数学作文裁縫簿記女礼等一切女学に必要なる科目を授く」とあります。小学校には高等小学校と尋常小学校とがあり、ひと月の授業料は中学科が1円、高等小学校が80銭、尋常小学校が60銭でした。香蘭女子小学校に通っていた子どもは良家のお嬢様が多く、通学は人力車で、中には2台の人力車を連ねて通う子どももあり、その2台は子どもの乗る人力車とお供の人が乗る人力車で、お供の人たちも含め皆、学校が終わるまで門外で待っていたそうです。登校すると挨拶は「Good morning. How are you?」。毎朝礼拝があり、校長先生は長橋政太郎先生。小学校はほぼすべて日本人教員によって授業があり、ただ週3回位は英国人の先生に英語を教わっていました。香蘭女子小学校の先生は皆、スーッ、スーッと歩かれて、頭をきちんと結い、その上に小さな帽子を載せていたそうです。上品で親切で優しく、丁寧に教えてくれたと、卒業生が後に振り返っています。上級生は「お姉様」と呼ばれていて下級生をとても可愛がり、昼食に美味しいサンドイッチを下級生のために作ってくれました。そのサンドイッチは紅茶付きでもありました。クリスマスの時は合唱をしたり、バザーもありいろいろな製作品を作ったりもしたそうです。香蘭女子小学校は1900年まで続きます。
小学校開校の1890年の香蘭女学校の生徒数は37名でした。また同じ年、2年間の予科を設置しました。そのため、それまでの修業年限4年の方は本科と呼ぶことになりました。なお、予科は1910年まで続けられます。
1891年には、同年起こった濃尾地震による孤児たちを収容するために、地震発生後間もなく現地へ向かったミス エリザベス・ソントンが中心となって清蕙幼女学校を設立し、そこに入った子どもたちは香蘭女子小学校で初等教育を受けました。この清蕙幼女学校には、先述した世界的に著名な英国人旅行家イザベラ・バード女史(1831~1904)が、後に深い関わりを持ちました。イザベラ・バードはジョン・ビショップと結婚しますが、何年もしないうちに夫は逝去、日清戦争中に朝鮮や滿州を旅行し、さらにその後、日本へ旅してその山川に心を慰められました。そして、亡き夫の記念を自分が愛する日本に遺そうと思い、清蕙幼女学校のために一棟の寄宿舎を建設してほしいと、1895年6月に芝区栄町11番地にあった主教館(エドワード・ビカステス主教の住まい)に宿泊していた時、香蘭女学校校長に寄付金を渡しました。その寄宿舎が1895年に落成したため、ジョン・ビショップ館と命名し、長くイザベラ・バードのご主人の記念とすることとした、という記録が残っています。落成した寄宿舎ジョン・ビショップ館では、1895年9月28日にエドワード・ビカステス主教の司式によって開院式が挙行されました。ちなみに、9月29日の「聖ミカエルおよび諸天使の日」に合わせて式を行うこととしていたが、この年はこの日が主日(日曜日)だったため、前日に挙行されたということです。なお、香蘭女子小学校は貧しい家庭の子どもたちのために、無償で教育の機会を与えており、そのため孤児のための清蕙幼女学校には小さな男の子も寄宿していました。
翌1892年に、香蘭女学校は創立後初めての卒業式を挙行しました。この時のただ1人の第1回卒業生が三吉ともです。幕末、土佐の坂本龍馬が襲われ瀕死の重傷を負い薩摩藩邸に担ぎ込まれ九死に一生を得た寺田屋事件の折、寺田屋に龍馬と同宿して一緒に襲われ、重症の龍馬を救った槍遣いの名人が長州藩士・三吉慎蔵。この慎蔵の次女が三吉ともです。三吉ともは1865年生まれ。1886年に京橋英語学校、1888年に明治女学校、翌年1月31日香蘭女学校に入学。1891年、ともは一度故郷に帰り翌年結婚。すぐに上京し1894年3月香蘭女学校卒業。その後は来日する外交官夫人と皇后との通訳に従事し、1899年逝去。一人娘の梅子は慎蔵と古くから親交のあった乃木希典の養女となり、そのご子孫が現在兵庫県宝塚市におられます。
なお、創立当時の卒業式は、内外の賓客や生徒の父母を招き茶菓で饗応し、式典ではビカステス主教や今井壽道校長の式辞、慶應義塾塾長等からの祝辞、卒業生代表の答辞、さらには教員や生徒による祝辞、生徒によるピアノの演奏、英語暗唱やジュリアス・シーザーの劇、唱歌、手芸や墨画の展示、などが続きました。1893年の第2回卒業式では、卒業生代表として末川たき(後の田中滝子)が英語の答辞を読んだとの記録が残っています。なお、茶菓の饗応にはアイスクリームが出されたこともありました。
1897年、女子手芸部が付設されました。修業年限は、裁縫科が3年、刺繍科が4年でした。手芸部は1912年まで続けられます。そして、1899年には学則変更をし、刺繍専修科が設置されました。
麻布永坂時代(1888~1912年)の香蘭女学校は、学校としての組織作りが試行錯誤しながら次々と行われた日々であったと言えましょう。
(写真は左上より、清蕙幼女学校、清蕙幼女学校での子どもたち、三吉とも、三吉ともの学籍簿、末川たき、末川たきの卒業証書)【清蕙幼女学校関連の写真は、金坂清則氏から許可を得て『イザベラ・バード 極東の旅』から転載しました】