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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(13)
1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。
来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第9回です。
《香蘭女学校の歴史 9 香蘭女学校の体育教育事始め ~ 最先端の授業》
麻布永坂時代の香蘭女学校で、とりわけ体育の教育に功績のあった宣教師に、ミス フィリップスがいます。
ミス エリナ・グラディス・フィリップスは1872年9月、英国DorsetshireのWinfrith教会司祭館でジョージ・フィリップス司祭の娘として生まれ、同教会で受洗、1887年3月には、St. Mary’s Churchで堅信礼を受けます。1891年ケンブリッジ大学ニューナム・カレッジに入学、卒業後同大学の化学実験助手、さらに動物学講師となりましたが、1901年聖ヒルダ伝道団のメンバーとなるために来日、同年11月香蘭女学校の教師となります。同時に女子英学塾(現津田塾大学)でも歴史や聖書を教え、1903年には日本女子大学校英文学部の教授を兼ね、また1904年9月からは雑司ヶ谷に聖ヒルダ伝道団が小石川区雑司ヶ谷108番地に設けた女子学生寮「暁星寮」の寮監も兼ねることになります。日本聖公会のためにも力を尽くしましたが、日英関係悪化のため1941年カナダへ、そしてその3年後には母国英国へ帰国し、1965年5月に92歳で逝去するまで英国で暮らしました。1963年には日本女子大学名誉教授となっています。
香蘭女学校教師時代のミス フィリップスは、自然観察と体育という、当時の日本の教育に欠けていた分野を率先して教えました。香蘭女学校に残る古い記録では1902年の創立15年記念会の記事にその名前を見ることができます。「昨年夏期休業中校堂の増築落成せるを以て11月20日を卜し創立15年の紀念を併せて其祝会を催したり…(中略)…ミスヒリップス氏は其の担任せらるゝ体操と遊戯(ホツキング)を演習せられしが頗る来賓の喝采を博したり」。さらに1904年の卒業・進級証書授与式の記事には、「4月23日午後2時本校第11回卒業、第15回進級証書授与式を執行す…(中略)…次にミス、ヒリップ師担当の体操、ホーキー其他の戸外遊戯ありて5時30分散会したり」とあります。体操は、卒業式のあとの祝会の目玉だったようです。
当時ミス フィリップスが教授した体育の授業については、多くの校友生が後に振り返っています。
「其頃香蘭は麻布永坂上の島津邸の竹藪を廻りを荒なわで縛って使っておりました校庭にはシーソー1台とブランコ2台あって毎日順番待ちして楽しんで遊びました。ミス・フィリップスが来られてからは、まだ日本では誰も知らなかったバスケットボール、ホッケ、テニス、クリケット、体操などをみな英語で教えてくださいました。」(12回卒業生 塩月米子)
「日課は体操なんかも全部英語で、レフト、ライトですから香蘭の体操は有名で皆見に来ていました。ミス・フィリップスが教えてくださいましてね。先生は後には日本女子大へいらっしゃいましたが、私共の頃は香蘭でね。服装は普通の服装、袴でやっていました。竹の棒跳びとかもやって、背丈より高く跳んでましたよ。シーソーの大きいのがあって、片方に3人位座って、もう片方から順番に1人ずつ跳ぶんですが、私袴がひっかかって頭を打って気絶しちゃったこともあったんです。お昼からは、裁縫だのお絵だの随意科でしてね。そうでない者は皆運動なんですね。テニス、ホッケー、クリケット、ラウンダースなんですの。お信じになれないでしょうけど。よそへ試合にもいきました。テニスは皆ダブルスでやりました。ラケットは学校のを借りるのですが、素早くしないと良いのはなくなっちゃうんです。」(第16回卒業生 石井新)
「英国ケンブリッジ大学御卒業ホヤホヤのミス・フィリップス御来朝、早速にも理科と体操を教授せられました。当時は長袖に袴という服装とて先生もさぞやジレジレ遊ばした事と存じます。しかも当時、日本にはホッケー競技なるものはまだなき時代とて、ホッケーステッキも手に入りかね、遂にミス・フィリップスわざわざ日光へ吉田先生と御同道、木の道のつきたるステッキを沢山御仕入れになり、早速私共は、それを逆に持ち、塩月米子様と両キャプテンとして、大々優勝を争い、活躍いたしたるものでございました。又テニスも同様にて、お転婆者のこととて、或る時は、谷を隔て対面の英和女学校より試合申し込みを受け、身の程知らずの大胆さ、早速両人にて遠征と出かけ、まんまと敗北の涙をしぼった事も後の笑い話でございました。」(第11回卒業生 小林小冬)
ミス フィリップスは、それまで正課の体育の授業はなく希望者に畳の上でできることを少しだけ教えていたものを、日本中でも最先端の体育の授業に変革し、その結果1903年の学則改定で「体操」が全学年に正課として置かれることとなりました。
ミス フィリップスは1958年の香蘭女学校創立70周年記念に、当時を振り返る文章を寄せています。
「私が初めて聖ヒルダ校に関心を持ったのは、1895年、エドワード・ビカステス主教の影響によるものですが、初めて学校に参りましたのは、1901年11月9日でした。…(中略)…私は英語で自然研究を教えましたが、多くの生徒が動植物の生活について、素晴らしい絵を描いたことを覚えております。一人の生徒は、熱心の余り或る日生きたカタツムリを、たもとに一ぱい入れて授業に来ました。当時は、体操とか戸外活動を行った学校は、ごくまれでした。私は、こういうことをする必要を感じましたので、英語でスエーデン体操を始めました。体育館もなかったので外で授業をいたしました。簡単な体操用具が運動場に設けられていました。1年に1、2度運動会をしましたが、これは父兄や関係者の興味を大いにそそったものです。…(中略)…寄宿生のために、特別に放課後、戸外ゲームをはじめました。私達はラウンダースという、ごくかるい運動からはじめ、それからホッケーを教えました。グラウンドはせまかったので、私達はソフトボールと、登山用に日光で売っていたホッケーの棒に似た杖を使いました。その頃の生徒は大層礼儀正しくて、校舎の入口の外側ではいつも立ちどまって、『お先に』と言って頭を下げました。私共がはじめてホッケーをした時、二人の生徒がボールに突進して行きましたが、私は一人がその敵に向かって、『お先に』と言うのを聞きました。」
ミス フィリップスの教える最先端の体育の授業に、香蘭生が果敢に、しかも上品に取り組んだ逸話です。
(写真は左上より、ミス フィリップス、麻布永坂校舎の校庭での体育、日本女子大時代のミス フィリップス、塩月米子、清水〈後の石井〉新、海福〈後の小林〉小冬)