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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(14)
1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。
来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第10回です。
《香蘭女学校の歴史 10 バザーの始まりと初期の香蘭女学校の経営体制》
昨年11月23日(勤労感謝の日)、香蘭女学校では毎年恒例のチャリティー・バザーが盛大に開催されました。この香蘭女学校のバザーは2017年度で115年目の開催となります。つまり、第1回のバザーは1903年に開催されています。香蘭女学校の最大の歴史的行事であり、同時に在校生・教職員、父母、校友生(卒業生)が挙って参加する最大規模の行事です。また、このバザーは、日本で最初のバザーとも言われています。この香蘭女学校のバザーがどのようにして始まったのか。それには、明治時代の福祉状況を覗いてみる必要があります。
東京・青山に大きな敷地を占める青山墓地。その一角にある大きな墓石に、次のような墓碑銘が書かれているのを見つけることができます。それは、「聖斐留多養老院之墓」。そこには19人の女性の名前が彫られています。「タメ」「カネ」「ツヤ」「カマ」「テイ」「ヨシ」などと彫られたその名前は、どのような身寄りのある方か今となっては皆目わかりません。しかし、この女性たちはこの墓碑銘のある「聖ヒルダ養老院」に入所していた方々であることは間違いありません。
この《香蘭女学校の歴史 1》の中で、英国S・P・Gから最初に派遣された女性宣教師のアリス・エレノア・ホアが気に懸けていた2人の老齢女性の面倒を個人的に自宅でみていたことがあり、同じくS・P・Gの女性宣教師のエリザベス・ベシー・ソントンと協力し、1895年10月に老人収容施設を開設したと記しました。この施設ができた場所は、芝区西久保八幡町(現在の港区虎ノ門5丁目)で、この施設こそが聖ヒルダ養老院でした。ただ、この2~3年後には香蘭女学校のある麻布区永坂町1番地に引っ越しており、またここも手狭になり1898年5月に麻布区龍土町62番地(現在の港区六本木7丁目)に189坪の土地を購入して建坪62坪の施設を新築して、聖ヒルダ養老院は引っ越します。
香蘭女学校と同敷地にあった時から香蘭生と聖ヒルダ養老院とのつながりは深く、聖ヒルダ養老院が龍土町に移ってからもその交流は続きました。そんなある時、香蘭女学校に通う1人の生徒が、この龍土町の養老院のお年寄りのために何かできることはないかと思い、手編みの膝掛けを作り送ったことがバザー開催へのきっかけとなりました。この生徒の心を教職員も他の生徒たちも汲んで、学校を挙げてチャリティーの会を開催しようという機運が生まれました。そして1903年、第1回の慈善市(今日のバザー)が実施される運びとなったのです。
今日のようにバザーが毎年11月23日に開かれるようになったのはいつのことかは今のところわかりませんが、バザー初期のころは、何か必要があるたびに慈善市(バザー)が開かれていたようです。
さて、この頃の香蘭女学校の経営はどのような組織によって行われていたのでしょうか。明治期の香蘭女学校の組織は、学校全体の責任者とも言うべき立場にあったのは設立者(校主とも呼んだ)、教育現場の責任者は校長、寄宿舎も含めた校舎全体の責任者は館長で、創立間もない初期の頃は設立者(校主)が今井壽道、校長も今井壽道、そして館長はエリザベス・ソントンでした。そして、学校経営の方は最初の頃は特に名称はなかったようですが、幹部の集まりとして現在の理事会に相当する会があり、その議長を創立者であるエドワード・ビカステス主教が創立以来つとめていました。
そして、1896年にビカステス主教が病を得て英国に帰国し翌年逝去してからは、後任主教に英国S・P・Gから就任したウィリアム・オードレ―主教(56歳)が後任の香蘭女学校議長に就任しました。このオードレ―主教在任中の1902年に、香蘭女学校は理事会規則を定め、理事会を香蘭女学校の主権者とすることになりました。オードレ―主教はこの時から、理事会議長となりました。
オードレ―主教は1908年11月に日本の主教を退任し離日したため、翌1909年には後任主教に英国S・P・Gから就任したセシル・ヘンリー・ボーフラワー主教(46歳)が後任の香蘭女学校理事会議長に就任します。そして、設立者である今井壽道の逝去により、1919年にボーフラワー主教は設立者を兼ねることになります。
ボーフラワー主教が1921年に日本の主教を退任し離日したため、翌1922年には後任主教に英国C・M・Sから就任したサミュエル・へーズレット主教(48歳)が後任の香蘭女学校理事会議長に就任します。同時に香蘭女学校設立者もヘーズレット主教に変更となりました。
1923年に日本聖公会では、北東京地方部から独立して東京教区が生まれ、教区主教の選挙によって日本人初の主教として立教大学学長の元田作之進司祭が東京教区主教に選出されました。一方、1912年から聖ヒルダ伝道団の他の事業と分離して日本聖公会南東京地方部の配下に入っていた香蘭女学校でしたが、1923年の東京教区設立を経て、1926年に理事会議長もヘーズレット主教から東京教区の元田主教(64歳)に代わり、1928年には設立者もヘーズレット主教から財団法人聖公会教育財団へと変更になりました。
この後、1928年に急逝した元田主教に代わり松井米太郎司祭が東京教区2代目主教に選出されると、香蘭女学校理事会議長も松井主教(59歳)に代わり、また1930年には学校自体が財団法人化されて、設立者は財団法人香蘭女学校と変更されました。
(写真は左上より、第1回バザーの様子、オードレ―理事会議長、ボーフラワー理事会議長、ヘーズレット理事会議長、元田作之進理事会議長、松井米太郎理事会議長)