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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(15)

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第11回です。

《香蘭女学校の歴史 11 麻布永坂町の校舎が失火により焼失》

1910年11月16日午前0時30分頃、校舎のどこからか出火し、1時間余燃えて校舎の殆どを焼失してしまいました。
直後の周辺の様子が書き残されていますが、校門付近は勿論のこと、永坂近辺は道路はさながら大雨が降った後のごとく消火栓から水を撒いた名残がとどまり、一種の臭気を含んだ白煙が風の吹くまま四方に飛散し、惨憺たる光景であったとそこには記されています。校門は固く鎖して、向かって左側の聖ヒルダ女子神学部の通用門を代わりの門として、その門を入って左側の建物である清蕙幼女学校を香蘭女学校の臨時仮事務所とし、長橋政太郎校長をはじめ高田理、荒木鐸などの先生が深夜であるにも関わらず既にそこで執務に忙殺されていたとも記されています。
「哀れ昨日まで総二階三四百坪の大建築物もただただ一抹の煙と消え去り、濛々とした白煙の中、焼け残っている礼拝堂が淋しげに立っているのを見るのみである」
「校内の書籍器物一切を挙げてこれを烏有に帰する結果となったのは、尋常一般の災禍とみなさざるを得ないものではあるが、しかし火焔が舌を吐いて瞬間に数十室を嘗め尽くした惨状は、予想外の猛烈を極めたものであった」
と、惨状を目前にしての感想が綴られています。
失火の原因については、5年生の教室と裁縫教室との間にある寄宿部屋の屋根のあたりから燃え出したようですが、この寄宿部屋はその当時空き部屋だったので、火が出るはずがなかったと言われています。一方、2階の寄宿部屋へ上がる梯子段に吊るしてあったランプが原因ではと言う人もいました。しかし、女中取締の宮本さんがパチパチという音で目覚めた時には、既に5年生の教室の隣室から火が燃えていたということで、ここは梯子段からかなり離れているためランプではないだろうという声もありました。
この当日寄宿をしていた生徒は6名。何も持ち出す暇もなく着の身着のままでしたが、すぐに近くの鳥居坂にある英和女学校(現在の東洋英和女学院)のご厚意によりそちらへ避難しました。ヨーロッパからのお客様も2人いらっしゃいましたが、香蘭女学校館長(ミス メイプル・リカーズ)、教頭(ミス ヘレン・ニューマン)とともに、何一つ持ち出せず身一つで焼け出されました。
この火災で烏有に帰したものは、教室9、教員室、自習室、裁縫室兼図書室2、寄宿室5、応接室、客室、浴室、台所、用務員室2、外国婦人室7、同食堂、同読書室2、器具室2の36室に及びましたが、隣接していた日本人婦人教師寄宿室と礼拝堂は幸いにも延焼を免れました。
麻布永坂町は高台に位置し、水利に乏しい所で、消防の効果を上げることができなかったため、瞬く間に猛火は四方へ燃え広がりました。火災の最中に、第二消防署三番組一等消防手である佐久間猪之助さん(26歳)は、校舎の棟木の上に登って消火活動にあたっていましたが、棟木もろとも猛火の中に墜落し危うく焼死かと思われたところ、消防組の手に救助され、左足骨折、左腹部に重傷を負うという災難や、また麻布区宮下町6番地の白米商・砂子市太郎の雇人であった岸野照さん(26歳)は、校舎2階で生徒の荷物運び出しの手伝いをしていた際に墜落し左足骨折して気絶したが宮下医師の手当てによって蘇生したという災難などがありました。
また校舎の建物だけでなく、高価な洋書や器具類などもことごとく焼失し、損害総額は6万円にも及んだと言います。
火災後、授業をしようにも校舎はなく、やむを得ず11月27日までは休校としました。しかし、火災の報を聞いた校友が早速19日に在京校友一同を前述の仮事務所に招集し、50余名が集まって、再建資金の一部の負担と寄付金募集を決議、早速その趣意書「女子教育に同情ある方方に訴ふ」を起草しました。さらに11月25日には、香蘭女学校理事会議長であるセシル・ボーフラワー主教が父兄協会を聖ヒルダ女子神学部で開催しました。60余名が参集し、阿部泰藏(61歳、明治生命創立者)を委員長に、北川禮弼(49歳、時事新報元主筆、慶應義塾塾監)、石河幹明(51歳、時事新報主筆)、福澤一太郎(47歳、後の慶應義塾塾長)など錚々たるメンバーが委員として名を連ねた父兄委員会「私立香蘭女学校再築委員会」が始動しました。
また、海外では英国の聖公会本部が、既に役割を終えたとしてこれを機会に香蘭女学校を廃止すべしという意向を打ち出しましたが、存続を望む声が日ごとに大きくなり、内外の人々の協力によって存続・再建されることになりました。1911年の「年次報告」(Annual Report)には「St. Hilda’s School Fire Fund ~ Will you help us? ~」と題した募金の呼びかけが載せられています。そして、それまでも本国イギリスに於いて日本の聖ヒルダ伝道団の資金支援にあたっていたセント・ポール・ギルドは、香蘭女学校の校舎再建の敷地購入資金の調達を担当することを申し出ました。
存続が危ぶまれてもおかしくないほどの大惨事に遭遇した香蘭女学校でしたが、このようにした再建への道を歩み始めます。

(写真は左上より、火災が鎮火しつつある校舎、校舎の焼け跡に集まった生徒と教員、阿部泰藏、石河幹明、北川禮弼、1911年の「年次報告」掲載の募金呼びかけ)

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