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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(19)
1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。
来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第15回です。
《香蘭女学校の歴史 15 日本初のガールスカウトが香蘭女学校で発足》
白金三光町に香蘭女学校が移転してから7年経った1919年、イギリスから英語の教師としてミス マリエル・グリンストリートが就任しました。イギリスのガールガイドの一級指導者であるミス グリンストリートは、香蘭女学校の教員になって早々から日本でのガールガイド運動の準備を開始しました。この時その準備は、イギリスのC・М・S(Church Missionary Society、教会伝道協会あるいは宣教協会)から派遣された麹町インマヌエル教会のウィリアム・ペンガリー・バンカム司祭(63歳)の夫人を責任者とし、また香蘭女学校教員の荒畑元子(香蘭女学校10回生、香蘭女学校教員)の協力を得て進められました。その時12名の日本人女性がグリンストリートやバンカム夫人らとともに月曜日ごとに会って、どのようにしたらこのガールガイド活動ができるかの学習会をしたようです。今日残されている資料によると、ミス グリンストリートは後に、「当時、まだ若い教師だったわたしは、リリーフの教師として3年間、東京の香蘭女学校で教鞭をとるため、日本に渡りました。(中略)少女のクラブの様なものが何もないことに気がついたわたしは、やがてリーダーとなるべき人々の手助けを得て」女子補導会を始めたと述べており、またグリンストリートの後継の女子補導団指導者であったミス テオドラ・キャロライン・ウィリアムズ(1920年当時32歳)はS・P・G(The Society for the propagation of the Gospel、福音宣布協会あるいは福音伝播協会)の女性活動として「クリスチャンの少女たちと探求者たちがガールガイドを始め、また募集を行っている。ミス・グリンストリートとミス・アラハタは学校内でミーティングを行い、OGのひとりはブラウニーを始めた。ガールガイドは、この学校の同窓意識のために限定されたものではないけれど、わが校の少女たちとミス・ホーガンの学校の何人かは活動をすすめるための班をつくった。少女たちはこの活動にひじょうに熱心である」と、母国に報告しています。
日本での活動を、イギリスのガールガイドという名称を和訳して「女子補導会」と命名し、その準備の会が1919年に聖アンデレ教会の庭で行われたようです。そして翌1920年1月30日についに、日本初のガールガイドである「女子補導会」東京第一組が、イギリスのガールガイド連盟の日本支部として、香蘭女学校で発足しました。
女子補導会東京第一組は人数が多かったので、主に教会員である生徒たちは、同じく教会員であったお茶の水女子高等師範学校附属や東京女学館の生徒たちと一緒に、檜垣茂(香蘭女学校10回生、香蘭女学校教員、東京女学館教員)をリーダーとして、毎週金曜日に聖アンデレ教会で集会を持ち、縄結び・包帯巻きなど基本的なことを学ぶグループとして、別活動を始めました。このグループと区別するために、元々の香蘭女学校の東京第一組を東京第一組a、聖アンデレ教会で活動したグループを東京第一組bと呼称するようになりました。香蘭女学校の東京第一組は、組長には原則としてイギリスから派遣された聖公会の女性宣教師が、そして副組長には日本人女性として香蘭女学校の教員や卒業生が就任しました。
戦前の東京第一組組長には、上記のミス グリンストリート、ミス ウィリアムズのほか、香蘭女学校の宣教師・教員としてこのコーナーで後にご紹介することになるミス エミー キャサリン ウーレー(1920年当時33歳)、ミス メリー エレノア ヘイルストン(1920年当時31歳)が就任しています。また、副組長には上記の荒畑元子、石田(後に高橋)光子(香蘭女学校29回生)、竹井(後に森山)富美子(同30回生、女子補導団事務局員)、関根(後に宮澤)八千代(同32回生)、森ひな子(同33回生)、木藤(後に松本)信代(同教員)、桜井(後に吉田)澄子(同33回生、戦後にガールスカウト日本連盟第2代会長)、稲田旭子(同38回生)、龍崎恭子(同教員)が就任しています。このほかの発足当初からのメンバーには、細貝(後に黒瀬)のぶ(同31回生。女優の細川ちか子と同級)やその妹の細貝なお(同35回生)などがいました。
また、上記の檜垣茂や細貝のぶは、聖アンデレ教会の東京第一組bでもリーダーをつとめています。また、聖ヒルダ瑶光ホーム(1910年に閉鎖された香蘭女学校内の清蕙幼女学校の代わりに聖ヒルダ伝道団が作った身寄りのない子どもたちのための施設)で1921年に発足した東京第一組ブラウニーでは、香蘭女学校のミス ウーレーが指導者をつとめています。さらに香蘭女学校の中には東京第二組も誕生しました。こちらは組長こそミス グリンストリートでしたが、ここに集まって活動をしたのは香蘭女学校のすぐ近所にあった聖心女子学院に在籍するイギリス人をはじめとする外国人生徒と女子学習院の生徒たちでした。また、牛込の聖バルナバ教会で発足した東京第三組は、1901年から香蘭女学校の教員をつとめているミス エリナ・グラディス・フィリップス(1920年当時48歳)がその中心となって活動が始められ、ミス フィリップスが日本女子大学校の教員にも就任したため、主に日本女子大付属女学校の生徒や日本女子大生などに呼びかけが行われ、香蘭女学校寄宿舎の舎監である三田庸子も協力をしました。東京第四組は東京女学館生徒を中心に始められ、当時はまだ東京女学館教員だった上記のミス ウーレーが指導にあたり、後にミス ウーレーは香蘭女学校へ移籍し、戦後まで香蘭女学校教員としてガールスカウトに中心的役割を果たし続けます。またこの東京第四組では、上記の檜垣茂も指導にあたりました。
当時の制服は、紺無地のメリンスの和服と袴というものだったという記録も残っています。また、1920年夏には福島県猪苗代湖畔にあったミス エレノア・ディクソン(聖アンデレ教会の女性宣教師)の別荘でキャンプが敢行され、そのキャンプには香蘭女学校副校長のミス ルーシー・キャサリン・タナー(1920年現在47歳)も指導者の一人として参加し、また東京第一組のメンバーのほかに桜井くに(香蘭女学校29回生。戦後動物学の翻訳に携わる)ら香蘭生やその他の女生徒たちが参加しました。活動プログラムとしては、磐梯山登山、湖で水泳、湖畔の松林で野外炊飯、湖畔半周ハイキング、翁島へのハイキング、植物採集、押花整理、朝晩の礼拝、郡山聖ペテロ・聖パウロ教会の日曜礼拝出席、道しるべ追跡、疎水の川幅計測、食事・料理当番実習などが実施されています。また、1922年5月には香蘭女学校内で初のラリーが行われました。
イギリスのガールガイド連盟日本支部として活動していた女子補導会は、1923年にはより全国的な活動とキリスト教を超えた活動を明文化して、「日本女子補導団」に改組されました。その後、戦後にGHQの積極的な関与によってガールスカウトとして再出発して、今日に至っています。現在も香蘭女学校の校内団であるガールスカウトは、東京都第1団として活動をし、2020年のガールスカウト発足100周年に向けての準備を進めています。
(写真は左上より、香蘭女学校で発足した女子補導会 最前列右から6人目:ミス グリンストリート、ミス グリンストリート、荒畑元子先生、1920年の女子補導会東京第一組、1922年実施の初のラリー 中央:ミス グリンストリート、1924年の女子補導団 上から1列目左から4人目:細貝なお、2列目左から4人目:竹井富美子、同5人目:檜垣茂、同6人目:桜井くに、上から3列目左から2人目:ミス ウーレー、同5人目:ミス ヘイルストン、同6人目:細貝のぶ)