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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(20)

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第16回です。

《香蘭女学校の歴史 16 聖歌隊(現在のクワイヤー)を創設したミセス スパックマン》

現在のガールスカウトにあたる女子補導会が日本で初めて香蘭女学校に誕生した1920年、この同じ年に同じく香蘭女学校には現在のクワイヤーにあたる聖歌隊が創設されました。この香蘭女学校聖歌隊を創設したのが、音楽教師のミセス ウィニフレッド・スパックマンです。
ミセス スパックマンは宣教師ではありませんが、その夫はThe Board of Missions of the Protestant Episcopal Churchの宣教師としてイギリスから派遣されたハロルド スパックマン司祭で、1912年に西池袋に移転した聖公会神学院に妻や娘とともに住んでいました。
当時の聖歌隊の記録は、現在全く残っていませんが、その創設者であるミセス スパックマンについては、後に卒業生がいろいろと思い出として書き綴っています。ここでは、その一部を転載して、当時のミセス スパックマン先生の人となりを思い起こしてみたいと思います。

●唱歌のミセス・スパークマンにはお首の長いところから「鶴サン」のニックネームなど秘かに奉っていた。 【25回生 柏(旧姓:星)倭文子】
●音楽の先生でミセス・スパークマンと云う首の長い先生はとてもきれいな先生で生徒中の評判でございました。いつもお帰り頃には御主人であるミスタ・スパークマンがお迎えにわざわざ学校迄お越しになり奥様にコートをかけたり靴のひもを結んで上げたりなさるので私達にはそれが可笑しくてよくのぞきにまいりましたものです。今の時代でしたら何でもない事なのですが当時の私達には不思議に感じたのでございましょう。 【26回生 島田(旧姓:川上)友兄】
●先生(ミス・タナー)の伴奏でお美しいミセス・スパックマンから数多くの英国の古い歌や詩、クリスマスカロル、シェイクスピヤの歌曲等本当に楽しく今でも口吟むほどよく教えて下さいました。 【32回生 入江(旧姓:堀江)静子】
●昨年秋の校友会に私共クラスがお当番に当りましたので、何か余興をと考えた末、三十何年も前にミセス・スパックマンに御習いしたなつかしい英国の歌の数々を思い出し、これを白髪になった生徒達が昔に返って歌ってみましょうという事になったのです。急に若やいだ愉しい気分になって「スイート・アンド・ロー」だの「フー・イズ・シルヴィア」などを部屋に籠って唱ってみる有様、家の者は目を丸くしていました。 【33回生 森(旧姓:森)雛子】
●夢の様な英国の子守歌その他を教えてくださった美しくて首の長いミセス・スパックマン【36回生 二宮(旧姓:山田)章子】
●静かに耳を澄ましていると聞こえてくるような歌声、それは香蘭の生徒時代に習った歌「White Sheep」。校門の正門玄関の真上に講堂があった。毎朝の礼拝は勿論のこと、同交会、バザー当日の小音楽会(N響)、学年単位で歌うクリスマスキャロルなど、この講堂には数々の思い出が残っていた。然し最も印象的なのが音楽の授業であった。いつもにこやかなミセス・スパックマン、胸の両わきに手を当てて、先ず呼吸法から始まる。そして全く変わっていたこと、それはオタマジャクシの音符ではなかった。黒板に大きく板書してあるのは音符に代わるべく、ドレミファ(drmf)の頭文字の記号である。記号によって音を出しうたうのである。時々先生はピアノのキーを二つ三つたたかれて今のは何の音であるかを質問なさった。日本語の歌は校歌以外全く習わなかった。歌詞は英語の授業と関連づけて暗誦することになっている。五年間も記入しつづけていた一冊のノートは残念ながら今手許にはない。ミセス・スパックマンのあの美しいお声が今でも耳許に残っている。白金の母校の懐かしい思い出、英唱歌「White Sheep」。広いひろい青空に浮かんでいる真白い雲 White Sheep。私の心の歌としていつまでも歌いつづけていきたい。 【42回生・旧教員 赤津(旧姓:根本)八千代】
●音楽は広い講堂の前の方で、私共は2クラス80名が一緒だった。その頃生徒数は1年毎に40名と80名が交互であった。始めは志保沢先生や稲田先生がついてくださった。ミセス・スパックマンは日本語がお上手でなかったから。長いお頸の上の小さな顔、真中から分けられた短い銀髪の先生。デシンのローズ色のブラウスがよくお似合いの美しい方毎週着替えられる素敵な装いがたのしみだった。御自分の銀髪を指して、「これは白髪ではありませんね、心配してなったのでもありません。始めからですね。」と眼鏡の細い金の鎖をゆらせて微笑されたお顔は少女のようだった。 【49回生 田澤(旧姓:田沢)澄子】
●音楽のミセス・スパックマンには頭で声を出す様にと御指導を受けました。 【50回生 石黒(旧姓:吉嶋)文江】
●音楽は英語の時間と密接な関係がある。殆んどが英語の歌。先ず言葉を暗誦、次に、ミセス・スパックマン独特のおたまじゃくしならぬドレミの譜で節をおならいし、合わせる。広い講堂の檀上で先生が両手を胸に Breathe in! Breathe out! を繰返し乍ら大きな息を吸ったり吐いたりなさったこと、「アタマノコエ!」と高いお鼻の中程を拇指と中指とで引張る様になさったことなど、昨日の様になつかしい。 【50回生 高井(旧姓:立入)陽子】

なお、1920年頃の成蹊女学校(当時、目白にあった。現在は武蔵野市吉祥寺にある成蹊学園)の記録の中にミセス スパックマンの名前が散見されますが、同一人物であるかどうかは今のところ確認できていません。
香蘭女学校聖歌隊はその後、恐らく戦争へ向かいキリスト教が弾圧対象となる時勢に押されて消滅していったと思われます。戦後に聖歌隊が再編成されるのには、1977年まで待たねばなりませんでした。そして、香蘭女学校創立100周年を機にその名をクワイヤーに改め、今日に至っています。ミセス スパックマンの志は、現在もいろいろな礼拝奉仕の役割を聖歌などの奉唱を捧げることで、確実に引き継いでいます。

(写真は左より、ミセス スパックマン、ミセス スパックマンと愛嬢キャサリン、赤津八千代先生が記憶を頼りに記譜された「White Sheep」の楽譜)

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