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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(21)

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第17回です。

《香蘭女学校の歴史 17 新しい時代の期待を一身に背負った長谷川喜多子教頭》

白金三光町の校舎に移って、大正という新しい時代の香蘭女学校の期待を一身に背負った先生に、長谷川喜多子先生がいます。
長谷川喜多子先生は1872年生まれ。現在の女子学院の前身である桜井女学校に入学しました。後に女子学院の院長となる三谷民子がこの桜井女学校に入学した際に髪に緋鹿の子の手柄をかけ簪をさし帯に赤いしごきをしてポックリを履いて現れた姿を見て、上級生のガントレット恒子(作曲家山田耕筰の姉。後に婦人矯風会会頭)と長谷川先生は校舎の2階から「一寸、今度のあがりっこ踊つ子みたいだね。」と話したという在学中の逸話が残っています。長谷川先生は桜井女学校を1887年に卒業しています。当時の卒業式次第には「明治二十年卒業證授與スベキ者」として「日本学科四名 提箸金子 長谷川北子(後略)」と記されています。
桜井女学校卒業後は母校の教員となりました。1888年の「明治二十一年十一月調『京浜間女学校職員表』」には「教員 福島仲○(中略)○長谷川きた○(後略)」と記されています。後に和久山駒が「遠き思出」に「午前中は英語の教授にて二十八番地に住む上級の人々即ち(中略)先年故人となられし長谷川喜多子さんなどが、赤い帯に、すそ長に着た衣服に、靴ばきといふ当時最もハイカラの風俗をして教授された。其英語の達者なる事と所謂垢抜けした風俗とは如何に私の羨望する処であったろう。」と、当時の長谷川先生の姿を記しています。
この頃全国各地で女学校設立が相次ぎ、長谷川先生も高田女学校に新任教員として赴任してゆきました。高田女学校時代の三谷民子との近しい関係をほんの少しだけうかがわせる一行が、三谷民子の1892年5月9日の項に見られます。「五月九日 長谷川姉(きた子)より写真来たる。」三谷民子とは生涯の親友となります。
1896年、東京に戻ってきた長谷川先生は東京女学館高等女学科に英語教諭として赴任します。6年間ほど東京女学館につとめていたようです。また、明確な時期は分かりませんが、長谷川先生はこの前後にオックスフォード大学へ留学をしているようです。
さて、長谷川先生が正式に日本聖公会の教会員になったのは1904年。1905年に日本聖公会の女性の集まりとして設立された婦人いずみ会で初代書記に選ばれ、1909年には副会長に選出されています。また、聖ステパノ教会と京橋聖十字教会が喜望教会と合同して1912年に生まれた三光教会に1921年「母の会」が創立された際は、会長に選ばれました。時期は前後しますが、1906年夏には一年間の予定で英国の婦人教育事業等視察のために渡航、1907年11月15日に無事帰国した記事が残されています。
香蘭女学校に長谷川先生が奉職したのは1918年頃だと思われます。女子教育の第一人者として鳴り物入りで香蘭女学校に赴任された長谷川先生はすぐに教頭となり、長橋政太郎第2代校長とともに香蘭女学校を先頭に立って引っ張ってゆくこととなります。授業は英語と聖書を受け持っていました。当時のお住まいは日本聖公会の寄宿舎である聖マリア館でした。
女子補導団(現ガールスカウト)東京第一組の学校の教頭として、女子補導団活動にも協力を惜しまなかった長谷川先生は、ガールスカウトの歴史にもその名を留めています。
1915年に結成されスイス・ジュネーブに本部を置く世界最古の女性平和団体「婦人国際平和自由連盟」(WILPF)に日本は1921年5月正式に加入し、そのワシントンで行われた第4回国際会議に出席したのが長谷川先生でした。香蘭女学校の教頭だったこの時期に、まさに日本の女性運動のトップに立っていたのが長谷川先生だったのです。
1925年3月、欧米訪問から帰国して数日後の25日、長谷川先生は病を得て現職の教頭のまま急逝されました。後に副校長となる宣教師ミス タナーは次のような回想を記しています。「We had a very wonderful sensei here for about seven years; her photograph is also in the Hall. Hasegawa Kitako San. Her knowledge of English and ability to understand and speak it were exceptional. It was a great blow to us when she died, in March 1925, two years after the earthquake.」副校長と教頭という関係で一緒に仕事をされたミス タナーのこのことばに、長谷川先生に対する最大限の評価があらわれています。この ミス タナーはその後も長谷川喜多子先生のことに触れ、最大限の讃辞を送っています。「1925年に長谷川喜多子先生が逝去されましたことは、私共にとって大変な損失でした。私共は長橋先生が御隠退後は、先生が後を継がれるものと考えておりました。」
卒業生もこの頃を振り返って、教頭であった長谷川喜多子先生のことを忘れがたく書き綴っています。その一部を紹介しましょう。

●朝毎に、長橋校長先生や長谷川先生が講壇の上に謙虚に跪かれて祈ってくださってからその日の授業が始まるのでした。 【29回生 宮地(旧姓:岡見)奈美】
●長谷川先生が新任された時は素晴しい先生が来て下さったと随分張り切って英語の勉強をしたものです。 【30回生 辰巳(旧姓:阿部)浜子、日本初の料理研究家】
●私共五年生の秋に初めて修学旅行が許されましたのも進歩的な教頭長谷川先生の御力によるものと伺いました。長谷川先生は全くステキの一言につきる香蘭のホープでいらっしゃいましたが私共卒業を前にして欧洲に於ける婦人会議に我が国代表として御出席され御帰朝後数日にして急逝された事は生徒一同にはこの上ない失望でございました。のみならず香蘭の為には一大損失でございました。 【32回生 入江(旧姓:堀江)静子】
●教頭で又女子教育代表者の第一人者であられた長谷川喜多子先生の御急逝も惜しみて余りあるものでした。 【34回生 秦(旧姓:大井)ユリ】
●運動場に沿って小高い所に、もう一つ長谷川先生の寄宿舎というのがあって、そこには先生の親戚、友人の子女が数名入っておられましたが、学校の寄宿とはかなり生活が異っていました。当時、長谷川喜多子先生は教頭でしたが私が入舎して間もなく、脳卒中で亡くなられました。 【36回生 山本(旧姓:岩井)清子】

全力疾走で生涯を駆け抜けた長谷川喜多子先生。香蘭女学校の教頭としてのみならず、日本の女性平和国際運動の旗手として多くの女性たちから多大な期待を寄せられて、それに力強く応えてきた人生だったと言えましょう。

(写真は左より、長谷川喜多子教頭、高田女学校時代の長谷川喜多子先生、三谷民子先生)

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