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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(24)

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第20回です。

《香蘭女学校の歴史 20 白金三光町の通称「白金の丘」~寄宿舎「光風寮」》

1910年までの麻布永坂町時代の香蘭女学校には、全国から入学してきた生徒のために寄宿舎が用意されていましたが、1912年に白金三光町に移転してからも新たに寄宿舎が設置されました。当時は地方での女学校開校が相次ぎ、東京の女学校では寄宿舎が廃止される傾向にありましたが、そのような状況の中でも香蘭女学校では敢えて寄宿舎を設置しました。その設置に関する事情については、後に副校長ミス ルーシー・キャサリン・タナーが当時を振り返って次のように記述しています。「外国宣教師のため住宅問題が相談されました時、私は出来得るかぎり生徒達と生活を共にしたいという理由のもとに寄宿舎の設置されることを願いました。以来、当寄宿舎は多くは財政的に恵まれぬ牧師、教役者を援助する目的をもって最も経済的に経営を続けられました。なお、時に応じて英国にて寄附を募り他に修学の途を見出せなかった学生達をこの寮にて援助いたしました。この寄宿舎は極めて良き目的のために奉仕したと考えられます。或いは不幸を嘆き或いは怠慢の悪癖をもって入舎した多くの少女達は、寮の生活を通して幸福を楽しむ者となり、人生に確とした目標を見出すことを得て、働くことの喜びを味わう者となりました。勿論これは、私共に与えられた代々の優秀な舎監の力に負うところが最も多いのですが、私共はこの人々と寮舎に於いて互いに思想も主義も常に分かち合い、特にキリスト教信者の家庭の一員としての学生の訓育に協力いたしたのであります。私としては寄宿舎は学校と同様或いはそれ以上、重要なものと感じておりました。」
白金三光町の香蘭女学校寄宿舎は「光風寮」という名称で、その初期の舎監は草間芳枝先生でした。草間芳枝先生は毎朝生徒に旧約聖書についてのお話をしてくれた優しい舎監先生でしたが、アメリカにいたご子息に会いに行った後、旅の疲れからか1929年急逝されました。当時の寮生は14~5名で、和気藹々とした生活をしていました。夜の祈りは、シスターのチャペルで行われていたそうです。
草間先生のあと1930年から舎監に就任した三田庸子先生には、寄宿舎での事件のニュースが残されています。1934年7月26日午前2時頃、寄宿舎のトイレの窓を外して強盗が忍び入り、玄関脇の六畳間に寝ていた三田庸子先生を蚊帳の外から短刀を手に「50円出せ!」と脅迫しました。最初は愛猫フミちゃんの悪戯かと思っていた三田先生が起き上がると、手拭で覆面した27~8歳で黒っぽい背広に素足という姿の男が目の前にいました。三田先生は「そんなにはありません。これを持ってって頂戴」と財布から素早く10円札2枚を抜いて渡すと、強盗は「もう少し出せ」と言うので「もうありません」と答えると、「それではその腕時計を出せ」と強盗はねだり、プラチナ台腕時計を奪った上に「静かに静かに」と言い残して猫のように静かに立ち去りました。新聞記者に三田先生は、「あんな若い身で強盗をするなんて可哀想ですわ。」と話しています。1934年まで寄宿舎舎監をつとめたこの三田庸子先生は、後に和歌山で日本初の女性刑務所長となり、またその後東京婦人補導院で初代院長をつとめることとなります。
三田先生のあとには、千村重子先生や稲田旭子先生などが舎監をつとめ、副校長ミス タナー、さらにミス エイミー・キャスリーン・ウーレー、ミス メアリー・エレノア・ヘイルストン、ミス コンスタンス・マリア・エドリンといった外国人女性宣教師たちも、生徒たちとともにこの寄宿舎に住まいました。その頃は食費と寮費合わせて19円だったそうです。寄宿舎1階は風呂場、トイレ、食堂、ピアノのある部屋、舎監の先生の部屋、客間、英国の宣教師の先生の居間等があり、2階の両端に先生方のお部屋と病室が並んでいました。寮生の部屋は寄宿舎の2階に5部屋あり、6畳には2人、8畳には3人の割合で部屋割りされ、毎学期の初めに部屋替えがありました。各部屋の畳は縁のない琉球畳で、窓と柱の間は三角形の隙間があり、木造2階建ての古い建物だったため、地震があると大変揺れたそうです。
寄宿舎の一日は、お手伝いの広沢さんかお信さんが階段の下で鳴らす「カラン、カラン」という鐘の音で起床して始まります。朝食の前にそれぞれの決められた当番の場所のお掃除や、朝食のお膳立てをし、その時にミス タナーやミス ヘイルストンが起きてきて「グッドモーニング、きれいになりますね」と声をかけてくれたので、寮生たちは嬉しくて一生懸命階段や廊下の雑巾がけをしたそうです。朝は日本間の応接間で、夜は宣教師の先生方のお部屋で、お祈りがありました。宣教師の先生方とは必ず一日に一度、昼か夜か一緒に食事をする決まりになっていました。お昼休みに学校から帰ると、入寮時に持って来た自分の茶碗がのった各自のお膳が、食堂のコの字型のテーブルにきちんと並べられていました。真ん中に千村重子先生と稲田旭子先生、その向かい側に、ミス タナー、ミス ヘイルストンのお膳。先生の隣に座るのが少し窮屈で、早めに食堂に入って自分の茶碗を遠くの方に変えてしまったり、仲良しと隣同士に置いたりといった悪戯をした生徒もいました。また食事の時宣教師の先生方が、箸で味噌汁や漬物を器用に食べるのに生徒は最初はびっくりしたそうです。土曜日の夜は必ず、翌日の主日の特祷についてのお話がありました。日曜日は安息日で、礼拝に出る以外は自由でしたが、お金を使って買い物をすることは禁じられていました。夜の自習時間もなかったので、晩祷から帰るとすぐに部屋に入るのが惜しくて、月や星の明るい夜などは、空を見上げながら運動場で、「浜千鳥」などいろいろな歌を歌ってロマンチックな気分に浸ったそうです。
寄宿舎で最も怖かったというミス タナーの意外に優しい一面を伝える逸話が、45回生の一方井敬子(旧姓:永山)さんが後に記した文章に残されています。それは次のような逸話です。「ミス・タナーは謹厳で、お父様のようで、ミス・ヘールストンはお優しくてお母さまのような感じでした。1年下の今里千鶴子(後に井上)さんは、時々、お風呂場から腰にタオルを巻きつけて、裸で廊下に飛び出す事があり、私共は、ミス・タナーに見つかりはしないかとハラハラしていました所、案の定一度見つけられてしまいましたが、珍しく笑っていらっしゃったので安心した事があります。寄宿舎のピアノの練習をしている時、間違っていれば必ず来て注意をして下さるものでした。けれども、或る時、ミス・タナーから『あなたが午後、弾いていたショパンのノクターンはとてもきれいだった。職員会議の時、寄宿舎からきこえて来るピアノを聴いていて、いい気持になった』と誉められて嬉しかったのを覚えて居ります。」

(写真は左上より、寄宿舎とミス タナー、草間芳枝舎監、愛猫フミを抱く三田庸子舎監、稲田旭子舎監、ミス エドリン、46回生の今里千鶴子さん(後に井上)の卒業記念集合写真)

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