最新のお知らせUpdates
香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(25)
1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。
来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第21回です。
《香蘭女学校の歴史 21 校歌の作詞者でもある第3代校長富田俊先生》
富田俊先生は1876年11月1日、岐阜県大垣で生まれました。1889年、東京市芝区鞆絵小学校を卒業後、京橋区築地新栄女学校に入学し、翌1890年には2年前の9月に創立された私立東京女学館に転校しました。そして1894年に東京女学館の第1回生として卒業しました。
この東京女学館在学中に富田先生は、英語をメリー・プリンスについて4年間学び、同時に1891年から5年間は私立村田塾に通って漢文を、さらに同じく1891年から10年の間は国語の古典を平田盛胤について学びました。また、1893年からは文学博士佐々木信綱について古典和歌を修め、以後45年間の長きにわたり竹柏会(ちくはくかい。短歌結社。1899年創立。佐佐木信綱主宰。現在まで続く)の同人として一心に歌道を歩みました。
一方、1895年に文部省教員検定試験を受験し、高等女学校国語科教員免許状を取得しました。さらに1893年より5年間、故実礼法を有住齊について修め、1897年に作法科教授免状を取得しました。1903年1月より普連土女学校に奉職し、1915年3月まで12年にわたり同校の国語教員の任にあたりました。
さて、香蘭女学校へは普連土女学校奉職に先立つこと6年、1897年より勤務し、実に36年の長きにわたり国語・国史を受け持ち国文科主任として生徒の教育にあたりました。在校生と卒業生の集いとして1896年から続いていた文学会の名称を1905年に改めて新たに校友会が創立された時には、富田先生は多大な尽力をし、またその校友会のうち在校生の団体として同交会が1916年に分離成立してからは、その同交会の指導にも熱心にあたりました。
1901年から長く校長をつとめた長橋政太郎先生が古稀を遥かに越えて勇退を決めた際に、長橋先生から強く請われて、1929年香蘭女学校の校長に就任することになりました。長く香蘭女学校に貢献し温厚な人柄で誰からも愛されていて、また女学校の校長に相応しい女性教員代表としての富田先生に白羽の矢が立ったものと思われます。富田俊先生は校長就任後、長橋先生が会長をつとめていた校友会の副会長も兼ね、激務の日々を過ごしました。1928年の昭和天皇即位の御大典の時には、長年女子教育に尽力した功績により文部大臣から表彰状と硯箱を拝受しました。
しかし、ついに体調を崩し1933年7月20日、一学期終業式の日をもって香蘭女学校を退職しました。退職後も校友会副会長は続け、学校は名誉教師の称号を贈っています。退職後、多忙の中で実現できなかった旅行に心を慰められて、折々の紀行文を集め、1936年12月に文集『落葉籠』を上辞しました。
しかし病は次第に悪くなり、しばしば聖路加病院に入院したりしていましたが、実兄の夫人が逝去したため1938年1月20日に東京から神戸に赴き、同24日葬儀に参列後にわかに発病し、1月30日午前1時20分、神戸の兄の家にて肺炎のため天に召されました。神戸昇天教会で覚前司祭の司式により、近親の方々や関西地方におられる富田先生の知己の皆様、そして香蘭女学校校友会関西支部(1931年6月に全国で初めての校友会支部として成立)会員たちが参列して密葬が行われました。2月5日にはご遺骸が東京へ移され、同日午後5時20分に富田先生の後任である井上仁吉校長をはじめとした教職員や檜垣茂校友会副会長ら校友60余名が東京駅で迎えました。そのまま午後6時には白金台町にある富田先生の自宅において野瀬司祭によって棺前の祈りの式が行われました。翌6日午後3時には逝世者のための祈りの式、7日午後3時出棺式が行われ、午後7時からは聖アンデレ教会で通夜の祈りの式、翌8日午後2時には聖アンデレ教会で埋葬式、同午後5時には多磨墓地で埋骨の儀が行われました。
亡くなられた第3代香蘭女学校校長・富田俊先生への弔辞のうち、和歌の師匠である佐々木信綱氏と、同僚である宣教師ミス ヘイルストンのものをご紹介しましょう。
■「しぬびごと」 佐佐木信綱
あはれ悲しきかも、あはれいたましきかも、わが富田のぬし。
君は、兄君をおもひ、姉君をいたむあまりに、いたづきもたりし身をも忘れて旅だちましつるが、そはとこしへに帰り来まさぬ旅路なりき。
いく十年、君の教をうけつる人々の真心よりのかなしびを見聞くに、また今更に、君世にいまさばの歎ぞ深き。
四十年あまり、歌文の道を語りかはししおのれとしては彼の落葉籠にあまれる言葉の花、文の錦多かるを、みづからあつめおきまさばと、君あらましかばの歎ぞ深き。
言葉みじかけれど、しのぶ思は長し。あはれ悲しきかも、あはれいたましきかも、わが富田のぬし。
■「Tomita Sensei」 E.M.Hailstone
It was a great sorrow to us all to lose dear Tomita Sensei early this year, and words cannot say how valuable, to a school such as ours, are its older Christian members, like herself and others whom we all know. She had been a friend to so many generations of girls, who always found her the same when they visited the school after they had graduated, and one heard of her often visiting and comforting them when they were in trouble, even after she had retired from being head mistress. She was also most kind to the members of the staff, both Japanese and foreign, and I feel that she gave as, the latter, an example of gentleness and courtesy which helped us to understand the true spirit of our adopted country.
Her love of beauty was an inspiration to us all, and surely she was a treasure house of literary culture. Both to Church and school she is a great loss and yet we must thank god that He has called her out of this troubled world to be nearer to Himself.
最後に、富田俊先生は現在も歌われている香蘭女学校校歌の作詞者としても知られています。「みやまに薫るあららぎも」から始まるこの校歌がいつ富田先生によって作詞され、いつから歌われ始めたものなのかはいまだ判然としません。ただ、現在残っている資料からは、少なくとも1923年には歌われていたことがわかっています。
(写真は左上より、晩年の富田俊先生、東京女学館卒業時の富田俊先生、香蘭女学校奉職後間もない頃の富田俊先生、退職後の富田先生謝恩会で長橋政太郎名誉校長とともに、聖アンデレ教会での富田先生葬儀で弔辞を述べる長橋名誉校長、富田先生作詞の校歌を3回生田中たき(旧姓:末川)が墨書したもの)