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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(26)

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第22回です。

《香蘭女学校の歴史 22 白金三光町校地から現校地への移転までの経緯》

1912年に麻布永坂町から芝白金三光町に移転して以来、香蘭女学校は次第にその生徒数を増やし、1931年の校舎増築の頃には約3倍に、その翌年には1936年までに150人の生徒増員をする計画が発表されました。
このままでは、白金の狭い校地での学校運営は難しいとの判断から、1933年11月には香蘭女学校改善調査委員会が設置され、その後数回にわたり校舎問題の討議を重ね、1934年2月6日の第6回委員会で校舎改築が急務であるとの決議を得ました。そして同24日の理事会で校舎拡張案を採用して白金三光町の校地に鉄筋コンクリート3階建て校舎の建築が決議されました。翌1935年には鉄筋コンクリート造り3階建ての白亜の校舎の完成予定図が発表されました。また、同3月29日には財団法人香蘭女学校建築資金募集委員会が組織され、本格的に新校舎建築への動きが活発化してきました。
ところが、翌1936年11月6日、一生徒のご母堂が知人のご婦人を伴い来校し、学校移転の考えの有無を問われ、当時の井上仁吉校長は「理事会で移転説も出たが、適当な候補地もなかったため、とにかく白金の現校地に新築することとしている。今はその資金募集中でまだ建築に着手するまでに至っていない」旨を回答したところ、そのご夫人は「実は非常に良い候補地があり、先般某ミッションスクールに交渉したところ都合により見合わせとなり、甚だ残念に思うので本校のご都合は如何?」と答えられたとのこと。その大きさ5000坪、所在地は洗足付近、そして旧所有者、現所有者などを聞いて、井上校長は羨望の念を起こしました。なぜなら、香蘭女学校の生徒はこの洗足方面から通っている者がはなはだ多かったからです。また旧所有者は熱心なキリスト教信者で、信者で学費に苦しむ学生のためにゆくゆくはこの構内に寄宿舎を建てようと志していたというのです。
この土地を熱望している競争相手は某大名華族の百万長者と聞いて、井上仁吉校長は違和感を覚えました。遙か昔ならともかく、この時代にこの広大な土地を一貴族が住宅として占有することは、女学校を設けることと比較して如何なものであろうか、と。さらに、この洗足周辺の住民は女学校設立を望んでいて、さらに旧所有者未亡人は篤信のキリスト教信者でミッションスクールをこの地に設けることを強く希望していると聞いたからです。
11月11日に先の両夫人と洗足駅で待ち合わせた井上校長は、この土地を訪れ、構内・庭園・諸建物などを隈なく案内してもらい、申し分ない土地であるという確信を持ちました。19日には理事数名を連れて井上校長がこの土地を案内し、誰もがみな異口同音申し分ない土地であると賞賛しました。
香蘭女学校は至急理事会を開き、この地所を入手すべきと衆議一決しました。某華族との売買契約が成立しそうになっているとの急報を仲介の方から聞き、急ぎ譲渡希望の書面を作成して同月29日午後4時に交渉にでかけたところ、某華族への譲渡がその日の朝決定されたとのこと。しかし、八方手を尽くして陳情・交渉した結果、先般の譲渡の決定は覆り、遂に香蘭へ15万5千円で売り渡すことが決まりました。「香蘭女学校用地」という標柱が新校地の門前に建てられたのは1937年6月3日のことでした。これが現在の香蘭女学校の校地です。
ちなみに、前の道・中原街道のこの校地の前のあたりは、古くから「さいかち坂」と呼ばれていて、現在も学校前にその説明を記した標柱が立てられています。その「さいかち坂」に触れて、この年の6月5日に新校地見物に訪れた長橋政太郎名誉校長(この当時の前々校長)の「見校舎移転地記」という次のような文章が残されています。
「井上校長を始めその他実地踏査の方々がみな最善の邸地であると賞賛のことばを下さったので、私も一度実地を見たく思い、6月5日午後、車を拾って孫嫁静子と曾孫女美代子を伴い、校庭の門前の独角仙(さいかち)坂に着き、香蘭女学校敷地と書いてある新しい立派な標柱を見て本当に安堵しました。実地検分した方々から校地としては稀に見る最善のものと聞いていたが、実際に見て予想以上の良い土地であると思いました。また校地前後の坂は、独角仙(さいかち)坂と言って有名なものということですが、ちょっと面白く感じたその虫の形はカブトムシに酷似し、兜は頭の先に鹿角形の武器を備えているのでサイカチは牛角のようなものです。この仙虫が鋭い角を振るって校庭前後を護衛するのは実に面白くめでたい前兆です。
百聞不及一親観  今日来着意始安  独角仙虫振独角  警而隴上護香蘭
独角仙坂に至れば香蘭女学校用地という麗しく書かれた標柱が建てられています。校長先生の案内によって本館内を見て回り応接室、客間、食堂、書斎、寝室、図書室などを閲見しました。さらに校庭に出て四辺を観察したところ、庭地四辺の傾斜地を削り石堤を築き、上には綺樹芳草が密植し、荘庭はすべて高麗芝が生い茂り、緑色の毛氈を敷いたようです。このような土地に校舎を建てれば雑音は聞こえず、小川には野鳥のさえずりを聞くことができ、また校前後の坂名にあるように独角仙その他の虫類の吟声を聞くことができ、空気もきわめて清澄であるから、ここに生徒を収容し、その心身を啓発するのに最善の良地である上に、交通機関も追い追い整備され生徒の通学の利便が多いと思われます。」
さて、この土地は「しひゃくそう(四+百百+荘)」と呼ばれる土地でした。元々の持ち主は伊藤幸次郎という方でした。伊藤幸次郎氏は1865年に京都に生まれ、東洋汽船から満州日報社、そして乞われて日本鋼管会社設立に参画しました。設立された日本鋼管会社は、社長が伊藤氏の旧友である白石元治郎氏、取締役技師長が今泉嘉一郎氏、そして支配人・専務が伊藤氏。伊藤氏はまさに今日まで続く日本鋼管設立の鼎の一人でした。
伊藤幸次郎氏は邸宅を新築するたびに「しひゃくそう(四+百百+荘)」と命名していました。それは、伊藤氏の先祖が八百屋であり、その八百屋としての初心を子々孫々に至るまで忘れずにいるため、「百」の字を2つ書く書き方で4×200=800の名前をつけたとのことです。
近代日本最大のキリスト教指導者である植村正久氏によって受洗した伊藤幸次郎氏は、その死に臨んで「基督者の子弟にて学資に乏しき者のために一切の財産を提供したい」と遺言書に認め、当時数十万円と言われた全財産は、新たに設立された財団法人しひゃくそう(四+百百+荘)に譲渡され、そのすべてはつい最近に至るまで奨学金として大切に使われていたとのことです。
このしひゃくそう(四+百百+荘)は、広大な芝生の庭園・築山のほか、洋館とともに茶室「寸心庵」を擁しておりました。香蘭女学校が2005年に建設した茶室「芝蘭庵」は、この伊藤幸次郎氏の造った茶室・寸心庵の再構という意味を持っています。現在の芝蘭庵の建物や露地の様子は、しひゃくそう(四+百百+荘)にあった寸心庵のそれと酷似していますが、死後にまで貫いたキリスト者・伊藤幸次郎氏の尊い志を、現在の香蘭女学校も何としても引き継ぎたいという強い思いが、この芝蘭庵には込められているのです。
さて最後に、実はこの新校地に新校舎が完成するまで、この時から丸4年の月日を要します。これは、資金不足、日中戦争の勃発、資金調整法の制限、統制令発布による工事制限、資材の絶対的不足など、戦時に向かいつつあったこの時代の苦難の直接的影響によるものです。

(写真は左上より、伊藤幸次郎氏、白金三光町での校舎新築案デザイン図、新校地の門前の標柱、伊藤邸のアプローチと庭園、伊藤邸の本館(後に香蘭女学校教員室棟)、伊藤邸の茶室寸心庵)

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