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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(27)
1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。
来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第23回です。
《香蘭女学校の歴史 23 東北帝大総長から香蘭女学校校長へ~井上仁吉先生》
1933年7月20日に第3代校長の富田俊先生は、体調を崩されて退任されました。
それ以前から内々に辞意の申し出があった富田先生の後任校長については、理事長の松井米太郎主教を筆頭に理事会がその選考に当たりましたが、その選考には大変な困難があったようです。現在でも変わらず同じ選考条件ですが、校長になる方は第一にクリスチャンであり、それに加え日本聖公会の会員でなくてはなりません。当時この条件はなかなか容易なハードルではなく、理事の方々は大変な苦労をされたようです。
そこに、まさに天祐とでも言うべき、全ての条件を具備されて余りある方があらわれ、その方が校長職を受諾してくださいました。そして富田校長から校長事務一切を引き継ぎ、富田校長退職の同日、第4代校長に就任されました。それが井上仁吉先生です。
新学期開始早々の9月19日には、理事の志立鐵次郎氏(《香蘭女学校の歴史 19 香蘭女学校後援会と香蘭女学校保護者会の設立》参照)の司式により、香蘭女学校創立45周年記念式と同時に井上新校長歓迎式が挙行されました。
井上仁吉新校長は、1868年11月4日、蘭方医井上勤所氏の次男として京都に生まれました。1873年、京都最古の小学校に入学し、その在学中、明治天皇行幸の折、御前にて朗読をし、陛下より絹一匹とお墨付を賜わりました。京都府第一中学校、東京第一高等学校を経て、東京帝国大学工学部応用化学科に入学、1896年7月に卒業した後、横浜ガスに勤めました。1899年7月には東京帝国大学工科大学助教授に就任、1904年自費にてドイツ、ドレスデンの大学に留学しましたが、日露戦争のために1905年に帰国し、8月東京帝国大学工学部教授に就任、その間再び訪独しました。1907年8月に工学博士の学位を受領。1918年7月には東北帝国大学理科大学教授となり、1919年5月から1921年10月までは同工学部の学部長、1928年6月には東北帝国大学の第5代総長に就任します。この間に1ヵ月に2回程、天皇に御進講のため上京しました。また1916年3月6日に公布された「理化学を研究する公益法人に対し、国庫補助を為す法律」によって、創立委員長に渋沢栄一を迎えて1917年3月20日に設立された「財団法人理化学研究所」の7名の常務委員の一人として化学関係のことが井上仁吉先生に委嘱されました。さらに、エスペラント語の研究にも造詣が深く、1930年11月8日、一度衰微した仙台エスペラント会が復活した際に、井上先生が会長に就任しました。1931年6月、東北帝国大学を依頼免官するとともに同総長を辞任、後進に道を譲られました。現在、東北大学産学連携先端材料研究開発センターにあるオープンカフェ風デッキの中央には、「東北帝国大学第5代総長井上仁吉先生の御退官記念樹の桜」があり、毎年春に満開になります。同年7月には東北帝国大学名誉教授の称号を授けられます。そして縁あって、1933年7月に香蘭女学校校長に就任します。この年には、工業化学会(現在の公益社団法人日本化学会)会長もつとめています。さらにこの後、日本エスペラント学会の理事や、1936年3月設立の日本科学エスペラント協会(JESA)理事にも就きます。井上仁吉先生は応用化学研究分野の大家であり、書は「青崖」の号を持たれました。また心霊学に興味を持たれて、その研究もされました。
井上仁吉先生が初めて香蘭女学校を訪れた時のことを、「初詣で香蘭の匂い」という文章に残されています。1933年7月某日、省線電車に乗って恵比寿で降り、田町行きのバスに乗車して豊沢の停留所で下車します。このあたりに来たこと自体が初めての井上先生は、道に迷い、途中で行き交う人に道を尋ねながら香蘭に向かい、ようやく校門に辿り着きます。「香蘭女学校」と墨書された門標を暫し凝視し「筆力雄渾墨痕今なお淋漓たるものあり」と感服したあと、入ってすぐ右側に石垣の中の常緑樹に囲まれて古色蒼然とした教会を発見します。「これは後に有名な三光教会と知って驚いた」と井上先生は記しています。このあと正面の坂道をひたすら登り続けます。あまりの急勾配の連続に、登り終わって校舎を発見した時、「思わず破顔一笑ああこれかと独語した。初めて香蘭を訪れる人は誰でも私と経験を同じくして思うだろう。有名である香蘭を一目見るだけでも難行苦行一通りではないと。」という感想を漏らします。何と軽妙な楽しい先生であることかと思わせる逸話です。校舎に足を踏み入れてまず、廊下の掃除が行き届いていることに感心します。また、施設全体は規模は小さく完全とは言い難いものがありながら、「落ち着きと奥ゆかしさを深く感じた」と述べています。教員室のあまりの狭さに一旦は悲哀を催しますが、このぎゅうぎゅう詰めの教員室に家庭団欒の情味があることを感得しないではいられないと、後に知ります。そしてこの文章の最後に、「本校はこのように人工的物質的には貧弱であっても、自然的精神的には豊かに恵まれている。殊に精神的方面としては46年前の昔より終始一貫、キリスト教主義により徳育を施すことを第一義とするところ、これが本校の本領であり、香蘭の匂いである。このような学校に学ぶものは、常に身心を爽快にして、愉悦の情を豊かにすることをもって、不知不識の中に徳性を善養することができ、学校を卒業したら永く社会に香蘭の匂いを宣昭するに至るだろう。」と書き記しています。井上仁吉先生が香蘭女学校を一目見て、創立以来守り育て続けている香蘭の心を見事に感じとっていることが、この文章からよくわかります。
上述の1933年9月19日に挙行された香蘭女学校創立45周年記念式並びに井上新校長歓迎式で、井上新校長の行った挨拶についての感慨を、後に第11代校長となる志保澤トキ先生が創立70周年の1958年に当時を振り返って次のように述べています。「井上先生が昭和8年に就任された頃から、副校長ミス・タナーに教務上の御相談を受け、お手伝いもさせていただくようになりました。井上先生がおいで下さいましたのは、東北大学の総長を定年で辞された直後であったと記憶いたします。当時の教職員・在校生の中には、就任式に先生がなさった御挨拶を覚えて居られる方があることと思います。先生の最愛の御嬢様の発病から臨終までの父上としての限りない愛情と悲嘆、そして、如何にその御嬢様の美しい信仰により、科学者の先生がキリスト教徒になられたかという物語でありました。『制服姿の皆さんがこうして並んで居られるのを見る時、神様が私の最後の奉仕の場所として、この上もない楽しいところを与えて下さったことを感じ、心から感謝しないでは居られません。』と結ばれた飾り気のない中にも温情のあふれた御挨拶が、全校の心をとらえたのは当然のことであったと思います。」
井上校長就任から半年ほど香蘭で一緒に過ごした後、結婚して退職した伊村三枝先生(在職時の旧姓:浦野)が、その時の井上新校長の様子を翌年に記した次のような文章があります。「校長室との境の入口の所へ誰もが進んでゆく。中からは新校長井上先生のあのゆったりしたお姿にふさわしい丸味を帯びた「お早う……」のお声が職員室の方まで流れてくる。新しい校長先生! そうした特別の気分も一日一日と薄らいで何時の間にか何でも井上先生のお耳にお入れする程になってしまった。若い先生の間では特に「お父さま」というよび名で通ろうとさえしている位。ただ先生があの校長室に座ってさえいらして下されば、それだけで私共は大安心を与えられた様な気がしている。「先生の名も生徒の名もこれからポツポツ覚えましょう」等と仰っていらしたけれど生徒は大変としても先生の方は何時ともなく名前をご存知なのには恐縮してしまった程。どんな小さな事でもいちいちよくうなずいて聞いて下さる。お嬢様をお亡くしあそばしてから信仰に導かれたと仰るだけに何処かに先生の信仰生活には人間の心を捉える率直な強さが滲み出て来て、何処までも父としてのひろいお心持からすべてをご指導下さる事がこれから後も香蘭女学校の為に幸多い事と一同皆感謝を捧げている。」
井上仁吉校長の時代は、太平洋戦争に向かう時代でもあります。井上先生の校長就任の頃には、ご本人も迎えた教職員や生徒たちも、これからの苦難を知る由もありません。
(写真は左より、井上仁吉校長、1939年卒業式にてミス ウーレー・井上校長・ミス タナー、1940年卒業式にてミス ヘイルストン・井上校長、ミス タナー、志保澤トキ先生)