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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(28)

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。

来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第24回です。

《香蘭女学校の歴史 24 新校地購入後4年でようやく新校舎を建設して移転》

1937年に平塚(現・旗の台)の旧伊藤幸次郎邸「しひゃくそう(四+百百+荘)」4320坪を新校地として購入して間もない7月に日中戦争が勃発し、新校舎の建築資金の募金中止と、建築計画延期を余儀なくされることとなりました。
新校舎の建築延期の間、少しずつ機会を見つけては新校地を利用する催しが行われました。例えば、1938年9月8日には全校生が新校地の庭の草取り奉仕を、同年10月19日には新校地において創立50周年記念式典を挙行、1939年9月9日には再び全校生が新校地の庭の草取り奉仕を、そして同年11月3日午前9時からは明治節奉拝式を挙行した後、引き続き新校地で体操会を開催したりもしました。
しかし、1940年3月27日の理事会では、現状ではもはや建築のさらなる延期はできないとの意見で一致し、4月6日の理事会で時勢の厳しい中ではあっても校舎新築は断行するとの決議を得ました。既に前年1939年7月11日には資金調整局から校舎建築の許可が下りており、また1940年1月12日には白金三光町の校地や寄宿舎などの建物等不動産一切をSPG在日宣教団から財団法人香蘭女学校に譲渡され名義変更登記を済ませて、白金校地売却への準備も進めていました。そこですぐに4月10日、既に前年12月より設計を開始していた嘱託建築技師の大澤澤次氏、請負業者である竹中工務店との間に契約を締結しました。5月20日に警視総監指令の建築許可を経て、6月1日には理事長である松井米太郎主教の司式、今井直道司祭の補式によって新校舎起工式を挙行、7月13日には東京府知事指令の建築許可が下り、8月13日の臨時資金調整法による主務大臣許可が出ました。10月12日には上棟式を挙げ、1941年3月には落成の運びとなりました。移転のために授業は3月4日早くも終了し、翌5日には職員室や事務室の用品を新校舎へ運搬、14日から22日の間に新校舎への移転はすべて完了しました。ただし、付属の教師館だけは工事着手期の関係で少し遅れて1941年9月に落成をしました。
日中戦争の勃発以降、資金調達法による制限、統制令による工事制限、さらに軍需物資優先の時勢から建築資材の不足など、すべてに於いて不十分な準備のまま、何とか新校舎は竣工に漕ぎ着けました。建設資金募集委員会委員長の志立鐵次郎氏が下記の落成式で報告をしていますが、借入金5万7千余円という多額の借金を残すことになりました。
新築校舎は木造平屋造で広さ633.158坪。10室ある普通教室が全部で335.75坪。特別教室(理科室、家事実習室、歴地室、講堂兼体育館、準備室)が全部で243.375坪。そして渡り廊下と2ヶ所のお手洗いが全部で54.033坪という広さです。設計を担当した大澤澤次技師の言によれば、「様式を近代式に則り、構造に於いては耐震耐風を主眼とし、仕上げに於いては虚飾を避け、実質本位とし、特に採光換気並びに衛生の設備に万全を期した。建物基礎は強固な粘土層に達するまで地盤を掘削し、コンクリート礎盤を築造した。」とあります。また、伊藤幸次郎邸の洋館(旧本館)をそのまま改造して利用した建物(校長室、職員室、事務室、小使い室、会議室、作法教室、その他4室)は145坪ありました。落成式はこの完成を待って行われることとなりました。
1941年10月27日(月)午後2時から、紺碧の空に一点の雲もなく、風は多少冷たいながら秋の日差しが背中に暖かい、恵まれた好天の中、新校舎の落成式が行われました。校門に「香蘭女学校新築落成式場」の立て看板が出され、受付では当日の記念品である文鎮・絵葉書・プログラムの3点セットが係員によって渡されました。新講堂で行われた落成式の式次第は次の通りです。

奏楽                              高橋  美子
来賓入場
宮城遙拝
黙祷
国歌  二唱
挨拶        日本聖公会東京教区主教・香蘭女学校理事長  松井 米太郎
聖歌 245番
感謝祈祷                            松井 米太郎
式辞                     香蘭女学校校長  井上  仁吉
告辞並びに祝辞                  東京府知事  川西  実三
同                      東京市荏原区長  島本  正一
同                   基督教教育同盟会代表  安井  てつ
同            香蘭女学校校友会会長・同後援会会長  長橋 政太郎
同                      同保護者会会長  工藤 重治郎
同                       同在校生総代  瀬島  英子
報告                   建築資金募集委員長  志立 鐵次郎
同                     建築設計主任技師  大澤  澤次
同                 校舎建築及び移転担当理事  吉植  庄三
建築関係者へ謝辞                   理事長  松井 米太郎
校歌
祝祷                     理事  サムエル・ヘーズレット
来賓退場
奏楽                              高橋  美子

なお、この新校地が決定してからは、香蘭女学校の新校地への移転とともに、白金三光町の香蘭と同じ敷地内にあったエピファニー修道院東京支部も同敷地内に移転する予定でした。この女子修道院は常に香蘭女学校とともにあった英国の修道院で、ここに通った日本人女性が後に修女となり、その修女のために日本人のための修道院であるナザレ修女会が同敷地内に生まれました。また、エピファニー修道院東京支部には香蘭の清蕙幼女学校が形を変えた聖ヒルダ瑶光ホームという孤児院も所属していました。ところが時勢は変わり、時局に応じて物価は高騰し、この3つの組織が移転をして新たな建物を建てることは、高い建築費から考えて到底無理であり、またイギリスから来た修道院が新たに礼拝堂を建築することを認可されるような時代でもなく、三光教会以外の施設は、一切移転しないことを決心しました。どちらも断腸の思いで白金三光町に残る決断をせざるを得なかったのです。
時は1941年。太平洋戦争は目の前に迫っていました。

(写真は左上より、新校舎普通教室棟、新校地で行われた創立50周年記念式典祝賀会、新校舎講堂兼体育館、新校舎落成式、新校舎校庭、新校舎の職員室棟前での井上仁吉校長)

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