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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(29)
1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念企画展(仮称)」を開催いたします。
来年の企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第25回です。
《香蘭女学校の歴史 25 戦時態勢の中で香蘭生も勤労奉仕に携わる日々》
1937年に日中戦争が勃発してからは、女学生も勤労奉仕に動員され、香蘭女学校もその例外ではありませんでした。殊に、1941年に太平洋戦争が始まってからはすべての情勢が悪化し、1943年には帝都防衛部隊という名の補充兵の小隊が校内に駐屯することとなり、翌年には城南地区師団司令部が本館校舎を占領し、一方特別教室棟は軍需産業の一環として鬼足袋という会社の工場として使われることとなりました。特別教室棟はその後鬼足袋が撤退し、代わりに北辰電気という会社の工場となりました。戦時中は、香蘭女学校の生徒のうち低学年の生徒は校内の軍需工場で、高学年の生徒は校外の軍需工場で勤労奉仕することも多くなりました。
さて、戦時中の勤労奉仕に出かけた旧制女学校4年生の「感想文集」がたまたま残っていました。おそらく1942年のものと思われ、ボール紙の手作り表紙を紐で綴じた中には、それぞれの生徒が香蘭女学校の原稿用紙に万年筆で記した作文が入っています。ここにある「感想文集」は、東洋製罐株式会社に代用缶の製造のお手伝いをするため、女子産業戦士として香蘭女学校の4年生が10日間出かけていった後に書かれた作文を集めたものです。東洋製罐株式会社は1917年に大阪で創立された会社で、1919年には日本最初の自動製缶設備による製缶を開始し、1920年には東京工場を五反田に設置しました。また、1941年製缶業者の大合同勧告に従い7社を合併、現東洋製罐株式会社が設立され、まさに製缶業を先導する大会社となりました。戦後は缶だけでなく瓶やその他さまざまな容器類を製造する会社として躍進を続け、元東京工場の五反田の土地に本社ビルを建設し、2012年には新本社が完成しました。小中一貫の品川区立日野学園の隣にあたります。
今回はこの「感想文集」の中に収められた作文のごく一部をご紹介しましょう。漢字や仮名遣いは原文のままとしました。
●工場は淸聖な又楽しい處で御ざいました。私達が生れて始めて足を踏み込んだ代用罐製作の作業場は毎日勉強して居たあの靜かな空気の澄んだ学校のお敎室とは全く異つた雰圍気に包まれて居りました。
何んとなく薄暗いそしてむつと鼻を突くパラフィンの匂ひ、その中でも一番強く神経にひびいたのは機械の音でした。
私達五班は森永のシュガー・コーヒーを入れる代用罐を製作するお仕事を受持ちました。
始めの日は筒がかたくて、はめ込むのに相当骨が折れましたが日一日と私達の腕も熟練して来て仕事もはかどり、それと共に仕事をして居る時間が本当に楽しくなつてまいりました。
又機械の音もむやみな雜音でなく、規則正しい一定のリズムを打つて居る様に感じられ、其のリズムに乘つて私達の手はいそがしく動き、製作品をつめた箱は見る間に、うづ高く積まれてまいりました。其れを見る時の嬉しさは何んとも云へない程です。
工場内の工員さん女工員さん皆さんが大変親切なそして、ほがらかな方ばかりでした。
なれない私達を、一つ一つ分る様に指導して下さり私達は身にしみて有難たく嬉しく感じました。
私達は十日間一生懸命お国に捧げる気持ちで働きました。
その結果私達もびつくりする様な生産髙を生みました。
私達の此の腕で、それだけ生産したと思ふと、私の胸は万足感で一ぱいになりました。
又工場へ来て、〝人の心の暖さ〟、一つの物にでも多くの人の力、そして多くの精神がこもつて居ると云ふ事を心強く敎へられました。
こうして書いて居りましても、工場内の生活がなつかしく、名残りおしく感じられます。
●私は第五班でしたので森永のシュガーコーヒーを入れる代用罐を作りました。最初の日と二日目は筒が小さくずい分困つてしまいました。たいがいのは私共の手におへないので金谷さんや外の職工さんにしていたゞきましたがなんだかお気の毒な様な気がしてゐました。三日目からは仕事も楽になり楽しさも増して生産も多くなりました。
女工さん方も皆愉快な方達でしたし金谷さんは一日中私達の作業の面倒を見て下さいました。
働いてゐるとお晝のお辨当がなにより楽しみです。お晝休みに広場に出て遊びますが場所がせまくて中々遊べません。場所がないのだと思ひますが單調で殺風景な工場で朝早くから暗くなるまで働く人達の慰安としてもう少場所がほしいと思ひました。それとも職工さん方は私達の様にかけ廻つたりなさらないからあれでもいゝのでせうか。ラヂオでよく職場向けの音楽などやりますが今度職場に行きはじめてあの音楽の價値がわかりました。
もつともつと産業戰士の方々を慰めて楽しくして上げたいものです。私達はたつた十日間ですしめづらしくもあつて面白うございました。
工場に来て大勢の女工さんや男工さんと接して色々教へられ又私達のめぐまれた生活に感謝しました。学校や家では知ることの出来なかつたこともわかりましたし第一に私達の作業によつて少しでも生産髙が上りそれによつてお國の生産の一部にお役に立つた事の出来たのがなによりも一番うれしい事です。その様な張り合がなければきつと此の広々とした平和な学校に帰へりたくてあれ程能率も上がらなかつたと思ひます。
一人目の方は後にご結婚されて藤沢市鵠沼に、二人目の方も後にご結婚されて鎌倉市扇ガ谷に住まわれています。
戦時中の香蘭女学校がどのような環境に置かれていたかを推察できる感想文集であると言えるでしょう。「女子産業戦士」として「お国のため」に、慣れない工場作業に勤しみながら、同時にまた女学生らしい好奇心や楽しみを持ってお手伝いをしている様子からは、ほのかに笑顔や笑い声も聴こえてくるようです。また、「靜かな空気の澄んだ学校のお敎室」、「広々とした平和な学校」ということばから、戦時中の香蘭女学校の様子がうかがえます。
(写真は、校外での勤労奉仕に励む香蘭女学校の生徒たち)