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香蘭女学校創立130周年記念企画展に向けて(30)

1888年(明治21年)に英国国教会の宣教師たちによって建てられた香蘭女学校は、2018年に創立130周年を迎えます。
これを記念して、教職員、在校生、保護者、校友生をはじめ、香蘭女学校に連なるすべての方々が「香蘭女学校を再発見」できる場として、「香蘭女学校 創立130周年記念特別企画展」を開催いたします。

この企画展に向けて、香蘭女学校の歴史についてこのホームページのトピックス上で、時折ご紹介してゆくことになりました。今回はその第26回です。

《香蘭女学校の歴史 26 軍部からの圧力を受けて校長・教頭らが退職を余儀なくされる》

1942年の春に、名古屋の金城学院から鈴木二郎先生が教頭として香蘭女学校に迎えられました。「その飄々とした御風格の中に自然とにじみ出て来る暖かいお心づかい」と卒業生が後に語っているように、アッシジの聖フランシスに傾倒していたため質素で素朴な生活を愛しておられた鈴木先生はすぐに香蘭の皆から慕われる存在となりました。
一方時局は次第に嵐の様相を帯び始め、その中で香蘭に集う者たちの1つの大きな関心事は香蘭が属する日本聖公会の合同問題でした。イギリス・アメリカ・カナダを母教会とする日本聖公会は、太平洋戦争が勃発すると当然のように、軍当局からマークされ始めました。当時の日本のキリスト教は、まずカトリック教会が教団として認可され、続けて新教と称されていたプロテスタント諸派が合同して日本キリスト教団を結成しました。そして日本聖公会に於いては教区や教会単位で、この日本キリスト教団に合同しようとする動きとそれに反対する動きとがともに生まれていました。当然のことではありますが、軍部の圧力は非合同派の聖職とその教会へ伸びてきました。
香蘭女学校に於いても放課後は、鈴木教頭を中心として何人かの先生方が教員室で合同問題を論じることがしばしばありました。香蘭女学校と同敷地内にある三光教会牧師の今井直道司祭(香蘭女学校今井壽道初代校長のご子息)は毅然として非合同を宣言し、香蘭女学校も同じ道を行くものと当局からは見られるようになっていきました。
1944年に入るとすぐに香蘭女学校に憲兵隊からの干渉が始まり、園芸工作を教えていた水谷章一先生がふと現地から帰還した甥から聞いた話を教室でしたところ、それがすぐに憲兵の知るところとなり、逮捕され秘密裡に40日余留置されるということがありました。またその間、教員1名と数名の生徒たちも憲兵隊に召喚されて学校の様子を聞かれました。そして生徒たちはそのことを絶対に先生にも家族にも言ってはならないと言われたのを、先生でもなく家族でもない事務の吉岡さんに告げて、周囲は初めてそのような出来事があったことを知りました。
そして3月14日の入学試験の日の朝には、鈴木二郎教頭の校宅に憲兵が来て家宅捜索を行い、鈴木先生が書いた童話や詩や本などを押収し、鈴木教頭はそのまま憲兵隊に拘引されました。既に校舎本館の1階は軍に接収され、教員室は2階の元応接室の狭い部屋に移されていました。鈴木教頭が拘引されたのには、香蘭女学校内部に当局に呼応する者が存在していて、スパイ行為があるかのような密告をするものがいたという悲しむべき事実がありました。
鈴木教頭が拘留されて一週間経った時に、今度は志保澤トキ先生が九段の憲兵隊に召喚されました。10日ほどの拘留ののち鈴木教頭は帰されましたが、その顔は見るも無惨に憲兵隊での過酷な取り調べ・拷問の跡を留めており、元々細かった顔が両頬とも真ん丸に腫れ、まともに口をきくこともできない様子でした。周囲の者は口々に鈴木教頭に問いかけましたが、鈴木先生は「何でもありません。」と言葉少なに答えられました。それは言外に「聞いてはいけません。」との意味がこめられていると周囲の者はすぐに悟り、鈴木先生に問いかけることを止めました。志保澤先生も憲兵の執拗な尋問を受けましたが、さすがの憲兵も志保澤先生の毅然とした態度にはかなわなかったようです。聖書の授業中に「天皇を拝む」というのと「神を拝む」ということの相違を話された事柄についての尋問を憲兵から執拗に受けましたが、志保澤先生は冷静に賢明な応答をされたため、拘留の言質がとれなかったようです。
井上仁吉校長は、正三位勲二等の位階を持っていたため憲兵から直接に被害を受けることはありませんでしたが、都の教育庁から再三の干渉や説得を受けて1944年6月、井上仁吉校長は志保澤トキ先生とともに、既に3月に退職していた鈴木教頭のあとを追うようにして、香蘭女学校を退職することになりました。その退職の日は、生徒たちの泣き声が講堂を覆っていたということです。
退職した井上校長に代えて、教育庁によって東京都の視学官である篠原雅雄氏が校長に据えられ、理事長も兼ねることになりました。篠原先生は穏やかな方ではありましたが、次々と新しい教員を採用し、同時に新しい体制に失望して退職する教員も多く、クリスチャンの教師や校友生の教師はみるみる減っていきました。香蘭の行く末に不安を持つ教員たちに、三光教会牧師の今井直道司祭や校友生の松本千(旧姓:小泉、香蘭女学校第10回卒業生、慶應義塾塾長の小泉信吉の娘、国務大臣松本烝治夫人)などから「根さえしっかり残っていれば、香蘭という木は必ず又伸びて芽をふく時が来ます。」と励ましのことばがかけられ力づけられたそうです。とは言っても、それまでとは全く異なった香蘭女学校の一時期がここから始まります。
1945年、遂に香蘭女学校は香蘭高等女学校に改組。これにより、大日本帝国の高等女学校となり、キリスト教教育ができない学校となりました。そしてこの年の卒業式は、第52回生と第53回生の同時卒業式として行われ、香蘭女学校の歴史で唯一、聖歌や祝祷無しの卒業式となりました。

(写真は順に、鈴木二郎教頭、今井直道司祭、井上仁吉校長・志保澤トキ先生送別、篠原雅雄校長、松本千、第52回卒業生)

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